陰陽論 2
陰キャ、陽キャみたいな言葉が、最近ネットで使われてますね。一昔前には、ネクラ、ネアカとか言ったけど、ニュアンスは同じなんでしよう。
陰気な人というと、暗い、寡黙、非社交的、消極的な印象を想像します。陽気な人といえば、明るい、しゃべり好き、社交的、積極的、活動的な感じです。
正直に言うと私自身はこういう人の区分けが嫌いです。実際の人の性格なんていうのは複雑で、見かけ暗くて寡黙だけど活動的な人、よくしゃべるけど非活動的な人とか、ザラにいるわけで、何から何まではっきりと、陰な人、陽な人はいないのに、大雑把な区分けによって印象づけてしまうことがいいわけがないと思うわけです。
しかし、伝統医学系は身体の見立てにこれをやるんです。最初に。陰性体質とか陽性体質みたいに言うこともあるし、病気の種類を陰陽に区分けします。
実はこの分け方、用語も統一されているわけではありません。現代の中国で使われている中医学と、日本漢方では違うし、日本の中でも鍼灸の流派やマクロビオティックみたいな民間療法まで入れると、一層ややこしくなります。それじゃあいかんやろと、伝統鍼灸の中だけででも統一しようという動きは、ずっと前からありますが、まだまだです。
私が本稿を手掛けて、ここに結論が与えられた!なんてことは起きないにしても、わずかながら問題解決の端緒にならないかという考えは持っています。
話を少し戻します。陰陽五行とか聞いたことがない若い人でも、キャラを陰と陽に分けることはしていて、「分かったつもり」になっています。分ける=分かるという話をしましたが、分かるにもいろいろありそうです。数の多さやモノの大きさを、人は見てわかることができるのとは、ちょっと違う。
数や大きさの違いがわかるのは、先験的とか生得的とかアプリオリとか言われるものですが、陰と陽どちら?なんかは経験的に獲得したことです。
その経験が人によって違うので、誰かを陰キャか陽キャに分けようとしても、全員一致とはならないわけです。
医学という名前がついたもので、そういういい加減な判断が可とされたら、これは問題です。仮に陰キャ陽キャ分類を学問として成り立たせるなら、100人が100人とも認定できうるような方法が必要とされます。
誰もが認定しうる方法を作るには、どんなに複雑になろうと、先に述べたアプリオリな判断の組み合わせに依ればいいのです。
伝統医術での臨床は、陰キャ陽キャのように曖昧ではありませんが、同じ流派であっても100人中100人同じというほど厳密ではないだろうと察します。そこには経験の差やセンスの違いが生じているのです。術と名づくことにはそういう側面がどうしてもあります。外科手術の技術がみな違うようにです。
しかし誰もが共有し再現可能なものにしようとする意志がなければ、古代の人も書を残すことはありません。彼らが陰陽という二分法を実践するに、先験的な判断に依っていたのではないか?と一旦仮定した上で、その痕跡を追いかけてみたいと思います。それが追い付けば、我々現代人は彼らと同じ目線をもって、自然と人体を扱うことが始められるはずです。