陰陽論7 精神の発生
紹介する原文は明朝時代に発刊されたものをテキストにしています。注意していただきたいこととして、以下にあげます。(古典引用の折り、毎回記しますことご容赦ください。)
1,黄帝内経(素問・霊枢)は、一人の著作ではなく、当代にいたいくつかの学派の書いた巻が載せられていて、必ずしも統一された見解に依っているわけではない。
2,原文自体が成立した時と同じものかどうかもわからない。(巻によって最近になって書き写しの間違いが指摘されている箇所がある)
3,文の切り方も写本によって違ったり、解釈は多岐に渡る。
中国医学古典の黄帝内経霊枢の八巻目「本神篇」から、とりあえず原文を抜き出します。
…何謂徳気生精神魂魄心意志思智慮請問其故。
岐伯答謂。
天之在我者徳也。地之在我者気也。徳流気薄而生者也。故生之来謂之精両精相搏謂之神。随神往来者謂之魂。並精而出入者謂之魄。所以任物者謂之心。心有所憶謂之意意之所存謂之志。因志而存変。謂之思。因思而遠慕。謂之慮。因慮而慮物。謂之智。故智者之養生也。
黄帝内経というのは、王様の黄帝が岐伯というとても優れたお医者さんに、質問をして答えてもらう形式で大半が書かれています。ここでの質問は
「徳気が、精とか神とか魂とか魄とか、心とか意とか志とか思うとか、慮とか智とか、生むのは何でや?」
みたいなことです。
岐伯の答え
「天之在我者徳也。地之在我者気也。」
徳という、医学以外では一応馴染みのある言葉が出てきて困惑しますが、先ずその意味を保留して読み進めます。
「天が我々に在るのは徳である。地が我々に在るのは気である。」
これが天人合一思想をもろに現している部分でもあります。我々の中に天地があり、それは天に当たるのが徳で、地に当たるのは気であるということです。「徳は流れて、気は薄まって生ずるものである」というのもわかりにくいですが、天が動くもの、地が動かないものとするイメージには合致しています。生命は天地の両方から授けられたものとして表されます。薄という意味をどう捉えるか問題ですが、地が形のあるもの(この段階では無生物的なもの)として、これが固定された状態から少し揮発して、天からの流動と交わる状態を考えたのではないでしょうか。地は全く動かないものではなく、天に影響されます。雨に濡れたり、陽光に温められたりするようにです。徳は、物質から分解・拡散された気と合流します。
そう考えると徳というのは、物質に生命としての活動を与えるものということになります。徳は現代では「これも人徳よねえ」みたいに、良き人格のことのように使われますが、ちょっと違うわけです。生まれる瞬間に、誰にも最初に与えられたエネルギーの原点みたいなもので、これが無いと、生命も現代でいう精神活動みたいなものも生じないのだと次に続くわけです