陰陽論13精神の発生7

前回の話をうけて「植物にも魂があるんじゃないの?」という異議を持った方も多いでしょう。私自身、草木に魂のようなものを感じることがあります。いや、それどころか石のような無機物、古い機関車とか人工物からも「魂のようなもの」を感じてしまう人間です。

これが魂か「のようなもの」なのかは、魂というものの定義の問題ですから、いろんな考え方があるのは当然です。ただ中国古典医学だと、少なくとも動物に限定しなければ筋が通らなくなります。続きの文をもってそれを考えていきます。

所以任物者謂之心。

「物に任(た)うる所以(ゆえん)のもの,之を心という。」

いよいよ「心」が出てきました。私達が意識できている精神活動はここからで、そのまま「心」を「意識」に置き換えても良いでしょう。「物に任うる」の表現は見解が分かれますが、これは日本語の「物心がつく」に近い感覚かと思います。語源のことはわかりませんが、ここで勝手な解釈を拡げようと思います。

ここでの物を物質と考える向きも、現代中医学にあるようですが、多分違います。「物」は自分の周りにあるモノ、実在しているモノ、としてみましょう。

モノが何も無い場所というのは、実世界にはありません。実世界でなくとも想像もしにくくありませんか?床も地面もなく、生物も無生物もない、虚無にして広大な空間が広がるばかり。生まれてきても、そんなところにいるだけなら、精神活動は何も始まらないでしょう。「物」は他者とも言えるし、世界と置き換えてもいいかもしれません。世界を見ていることに気付く自分がいることで、自分の存在に気付くことを、世界ー内ー存在と呼ぶことがありますが、まさにこの状態を想定しているのではないでしょうか?

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