料理
今年80才を迎えた母はワーキングマザーであった。ナウいところではワーママと云うらしいが、母の時代そんな名称はなかった。むしろ子育て世帯の女性が社会へ出て働くことに冷たい時代であった。ぼくが従順な子どもでなかったこともあり、その原因が働いているからであるかのような母への陰口を耳にすることさえあった。保育園や学童保育がまだ一般的ではなく、小学校へ進学した際、出身が幼稚園ではないことで教師から不快な扱いを受けたことも一度や二度ではない。
母は天真爛漫かつ信念の人で、そういった旧態依然とした環境に屈する人ではなかった。毎日、会社員としての仕事が終わり姉と僕を学童保育や保育園に迎えにきてから、夕飯の支度をする。自然と僕ら姉弟は、台所で夕飯の手伝いをしながら過ごす時間が多かった。今日の学校生活のこと学童保育のこと保育園のことを、母は料理をしながら聴いてくれた。手伝いながら話をしたほうが近くにいられるので、家事をするようになり料理をおぼえた。
小学校の家庭科の授業でサラダとドレッシングをつくったのを機に、ぼくの料理への興味は拡大し、自分で料理の本を購入してつくり、家族へ供して満足を得るようになった。小学高学年になると、母はぼくらに食事のつくり置きをする必要がなくなった代わりに、食材のリクエストに応えなければならなくなった。
料理は人間力だ。行く先が不透明なこの世の中で、唯一あてになるのは人間力ではないかと思う。人間力とは「食べる力」、そして「食べるものをつくる力」。本来、料理ができなければ食べることはできない。誰か知らない人がつくり何が入っているかわからない得体の知れないモノを買って食べる異常さに、慣れてしまってはいけないのだ。生命の源である食べるものをつくる権利を、たやすく明け渡してはならない。料理をせずに健康を語り人生を語ること自体、ナンセンスというものだろう。
ウィズコロナで在宅時間が長くなったという。この際、料理をしたことがない人は、料理など始めてみるのはどうだろう。パートナーが毎日、どんなにハードなタスクを処理しているかわかるし、人に食事をつくってもらうということがどんなに特別なことであるかも実感できる。すると、家庭のコミュニケーションの深度も変わるだろう。さらに料理する側になれば、「利他」ということの意味を得られる。「利他」が自分の幸福感につながることだって実感できるのだ。
世のゆく末を読むことは難しい。さまざまな不安を煽る予測や言説が溢れるようにもなった。しかし、そもそも今まで世界中のシンクタンクが予測した未来など当たったためしがない。当たり前だ。未来はぼくたち一人ひとりの行動の積み重なりの先にあるからだ。
今こそ、自分の料理で相手を喜びで満たし、己を感謝で満たし、社会へ参画している実感を得るときである。料理とは、真の意味で社会参画の第一歩であるのだ。