ちょっと飛行機に乗ってポーランドへ
週1回は更新したいなあと思っていたのに気づけば今年の抱負を書いてから1ヵ月更新が滞っている(ちなみに今年の抱負はもう覚えていない)。この1ヵ月、大学院の課題に追われ、それが終われば検疫が緩くなったのを察知してポーランドに旅行に行っていた。
ぼくは寒い時期に旅行なんてのは行きたくないのだけど、周囲がいろんなところに旅行に行ってるのを見聞きして、ぼくもとりあえず飛行機に乗ってどこかに行きたくなった。ちょうど良いタイミングで、ポーランドは入国にPCRじゃなくてラテラルフローでよいこと、イギリスに帰国する際、PCRの結果を求められない事、ワクチン打っていれば隔離もなく日常生活に戻れること、航空券も片道2,000円ほどで費用的にいいなと思い、ポーランドについてなにも知らないけれどとりあえず行ってみた。
端的に言って、とても良かった。物価が安いし、辺鄙なところ以外だと英語が通じる。通貨はユーロではなく、ズロチなのだけど、キャッシュレス決済が浸透しているので、現金を持つ必要がない(これは想像以上に便利で、人の移動を一層加速させると思う)。
意外なことに日本食レストランがいたるところにあったし、コンビニにはおにぎりと巻きずしが売っていた。ポーランドの食文化は日本食と合うのだろう。逆にいうと、日本人の舌にもポーランド料理は合う。現地で食べたものどれもおいしく満足度は高った。
ちなみにいうと、世界中どこにでもあるはずの中華料理屋が、3つほど街をめぐったのにもかかわらず首都で1件しか見なかった。
さて、ポーランドといえばアウシュビッツだったりコペルニクス、ショパン、ワルシャワの人魚などがパッと思い浮かぶだろうし、それら定番はもちろん今回の旅行でめぐったのだけど、それよりも今回はワルシャワ国立美術館(博物館)を紹介したい。今回の旅行の個人的ハイライトはここだった。
ポーランドの国宝やらいろんな人物画が所蔵されていてとてもボリュームがある。が、はっきり言って、このあたりの油彩画にはそれほど価値はない。モチーフがどうのと言われたとて、ボストン美術館展やルーブル美術館展やらなんやらで目が肥えてしまっているのと、モチーフに聖書の一説が隠喩的に用いられてたりしてキリスト文化圏で育っていないから説明されてもあまりピンと来ない。
この美術館で最も価値があるのは古代エジプトの遺物発掘中に偶然発見された古代ヌビア人のキリスト教と土着の文化が混ざった8世紀から14世紀ごろの宗教画 Faras Galleryだろう。
https://www.mnw.art.pl/en/collections/permanent-galleries/faras-gallery/
ポーランド人考古学者が発見したからワルシャワにあるのだろうが(それに関連して古代エジプトのファラオや遺物もたくさん所蔵されている)、こんなもの初めてみたし、そんな歴史をぼくは知らなかったから「なんだこれは」という衝撃があった。
そして最高だったのが、14~16世紀ごろの宗教画であったり、木像。
キャプションがなかったり、ポーランド語だったりして実際にこれらが何かというのはよくわからないのだけど(故にここから先はすべてぼくの想像と怪しい記憶による)、当時の正教会が布教活動で使っていたものだろうと思う。紙芝居のようであり、1つひとつが聖書のエピソードを表しているのだろうし、大きいし、金が使われてたりして派手。あと、14世紀くらいのマリア像はとにかくおでこが広いのが印象的で、少なくとも当時は額が広いのが聡明であったり何かしら優れた意味合いがあったのだろうと思う。
覚えているかぎり、正教会系のこういう歴史物を観るのは初めてで、所蔵量も多く圧倒された。そして、やはり全然カトリックとは違うなという印象を受けた。この14~16世紀というのは日本でいうところの、戦国時代から関ケ原の戦いあたりまでであり、その時代のキリスト教と言えば、日本人がイメージするのはフランシスコ・ザビエル。彼の所属はイエズス会で、この会派はカトリック教会の腐敗への反省から清貧と貞潔を掲げていた。故に、日本で布教活動を始めた当初は彼らは浮浪者のような身なりの貧しい襤褸を着ていた。
この清貧の象徴(真に信仰に目覚めているので欲はないというシグナル)が異文化である日本では通じず、「あぁ、この南蛮人は母国で食い扶持をなくして日本まで流れてきたのだ。可哀想に」と思われ布教が進まなかったので、西洋の立派な格好をするようになったそうだ。
この正教会のそれも同じようなことなんじゃないかと思う。ぼくは宗教にはまったく詳しくないしどこからが偶像崇拝なのかとかわからないけれど、こういう現物があれば、人はイメージが持ちやすいし、立派な格好をした人から何か自分が知らないことを熱心に丁寧に何度も教えてもらうと、何か価値があるに違いないと思うだろう。
ぼくはキリスト教をマーケティングとかPRの面から見ている。見えないものを信じさせて、人生を預け、お金をださせるのはめちゃくちゃ難度が高い。故にその手法の1つひとつに、その布教の仕組みに人の心を掴む共通項があるはずだと思うのだ。
正教会のそれはカトリックとは違うと感じたと書いたけれど、それは正教会の教えがカトリックと異なるからというよりはむしろ、現地の人に受け入れられるように試行錯誤して最適化してきた結果ではないかと思う。少なくとも上記の宗教画や木像に関しては。イエズス会の例でいうと、カトリックの信用が地に落ちたからこそ、襤褸を着ることで「この人たちはその辺の欲にまみれた司祭とは違う」と思わせることができた。つまり、カトリック圏外なら襤褸を着る意味はあまりない。
あと、なんだろう、バチカンのシスティーナ礼拝堂を見た時はとても鮮やかで明るい印象を受けたのだけど、ここは照明の関係もあるのだろうけれど、金を使っているから暗い中で映えているし荘厳なのだけど、やはり暗い。あと、モチーフがイエスが出血してたり死の淵にあったり、信者の手足が(刑で?)欠損してたりで内容も重いものが多かったように思う。
ローマのそれは、とにかく信じれば救われる、幸せになれるようなイメージを持ったのだけど、この正教会は、なんだろうイエス様が苦しみを肩代わりしてくれますとか、イエス様はこんなに苦しんだのだからあなたはまだまだ頑張れますみたいな印象を受けた。
ただ耐えるしかない寒く、長い冬があるからだろうか。
これが正しいとすれば、このあたりの精神性も日本人と近いのかもしれない。「おしん」とか流行ってそう。「雪に耐えて梅花麗し」という言葉を思い出す。