シーモア―序章―
ぼくの目が途方もなく冴えてくるような物語にしてくれよ。満天におまえの星たちが全部でているというただそれだけの理由でいいから、ぼくが五時まで起きているようにしてくれ。それだけの理由でいい。
Give me a story that just makes me unreasonably vigilant. Keep me up till five only because all your stars are out, and for no other reason.
最近、サリンジャー選集(全四巻+別巻)を揃えたところ、選集にはわたしがこよなく愛する作品、「シーモア—序章—」が収録されていないことに気が付いた。(原題Seymour: An Introduction)(新潮文庫では、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」/Raise High the Roof Beam, Carpentersとともに収録されており、原書でも同じ構成だ。) サリンジャーは「ライ麦畑でつかまえて」(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」/The Catcher in the Rye)で非常に有名な作家であるが、その実「ライ麦畑でつかまえて」以外の著作はあまり世に知られていない。「ナイン・ストーリーズ」(Nine Stories)や、近年村上春樹が新訳を出して話題となった「フラニーとズーイー」(「フラニーとゾーイー」/Franny and Zooey)はたしかにそれなりの知名度を得てはいるが、同じ新潮文庫から出ているというのに「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア—序章—」のほうはからっきしだ。そもそも、選集の2巻や3巻に収録されている初期の短編や、別巻収録の「ハプワース16, 1924」(HAPWORTH16, 1924) などに至っては、選集が絶版になっているために手に入れることすら容易ではない。「ライ麦畑でつかまえて」が、これほどまでに一般常識レベルの知名度を 持っているにも関わらず、その作者の選集が絶版になっているとはどういうことなのだろうと不思議に思わなかったわけではないが、「シーモア—序章—」に 限って言うなれば、これがライ麦よろしく世に広まることはたしかにありえなかっただろう、とも思う。
「ライ麦畑でつかまえて」「ナイン・ストー リーズ」「フラニーとゾーイー」が小説として素晴らしく、ある一定の評価と一定の知名度を得ているとしたら、「シーモア—序章—」は小説と呼ばれうるのか すらが疑問な作品であり、有識者をして「失敗作だ」とすら評されるのも頷ける。小説という〈もの〉として、作者はこの作品でなにかを読者に伝えることに失敗しているし、ともすればそれは放棄されているとすら読める。グラース兄弟の次兄、バディが、若くして自殺した長兄、シーモアについて著そうと苦心した結果だとされているこの短編小説は、端的に言ってしまうならば、ストーリーもなければ物語の軸となるバディ/サリンジャーの思想すらも明確には読み取れな い。意図の掴めない表現が並び、脱線して広がった話はどこにも収束しない。「バナナフィッシュにうってつけの日」(A Perfect Day for Bananafish) で、ハネムーンの最中、幸せの絶頂であるはずの瞬間にピストルで頭を撃ち抜いたシーモアが死を選んだ明確な理由が、少なくともその一端が得られるはずだと 期待してページをめくるのであれば、大抵の読者にとってそれは徒労に終わることだろう。もちろん、なにもわからないとは言わない。しかし、わかると胸を 張って言えるだけのことはきっと多くはない。サリンジャーは、結局シーモアを描ききることはできず、この後の「ハプワース16, 1924」を最後に隠遁してしまったのだと言う人すらいる。たしかに、とも思う。序章、と名されてはいるが、「シーモア」の名を冠した作品はこれひとつ だ。一章も二章もない。しかし、バディ/サリンジャーがこれひとつでシーモアのことを語りきるつもりでなかったこともまた明らかだ。
一月、あるいは一年がかりであろうと、彼という人物をワン・ショットで、あるいは、かなり単純なシリーズもので書きつくすことは誰にもできないし、ましてわたしにできるとは思えない。
I can’t conceive of anyone, least of all myself, trying to write him off one shot or in one fairly simple series of sittings, whether arranged by the month or the year.
しかし、今のところ、兄のことを考えるとどうみてもわたしは短編作家ではない。今の自分は兄についての偏った前口上の類語辞典だと思っている。
But on this occasion I’m anything but a short-story writer where my brother is concerned. What I am, I think, is a thesaurus of undetached prefatory remarks about him.
ところで、〈バディ/サリンジャー〉という書き方をしてきたが、グラース・サーガの作品群のうちで、作者サリンジャーと、序章の語り手バディとの境界線はひどく曖昧だ。サリンジャーが発表した作品群のうちで、「バナナフィッシュにうってつけの日」「テディ」(Teddy) (両作品とも、「ナイン・ストーリーズ」収録)、「ゾーイー」(「フラニーとゾーイー」収録)「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア—序章—」、「ハ プワース16, 1924」、さらには「ライ麦畑でつかまえて」については、バディの作品であるということになっており、バディは序章の中でそのことに言及している。「ラ イ麦畑~」を除いた作品は、シーモアを描いたものと言えるが、(「ゾーイー」作中にも彼の存在は色濃く現れているし、「テディ」に登場する少年がシーモア を思わせる特徴を有していることはバディ自身が語っている。)つまり、序章を含めこれらの作品群におけるシーモアの描写は、サリンジャーという神の視点か ら描かれたシーモア・グラースそのひとというよりは、弟・バディの視点から再構築された兄・シーモアの肖像だ。言うなれば、グラース・サーガの作品群にお いて、シーモアは徹底してバディの兄であり、それ以外の主観から彼の姿が描出されることはない。つまり、読者である我々がシーモアという純粋な主観にアク セスするために、たとえば「バナナフィッシュ~」に描かれている彼の言葉や仕草を解釈するのは根本的な誤りなのだ。(このことに関しては序章の中でバディ も語っている。彼によると、「バナナフィッシュ~」に描かれたシーモアは、シーモアというよりはむしろバディ的な特徴を多く備えているのだという。)
他 方、それ以前の、1940年代の末に書いたもっと短い小説では、彼自身が直接姿を現すばかりでなく、歩いたり、話したり、海にもぐったり、最後の一節では 頭にピストルを打ちこんでいる。(中略)最初の作品で、ピストルを射つことはもとより、歩いたり、話したりする若者「シーモア」はまったくシーモアではな く、奇妙なことに、よく似ているのは——アレー・ウープかな——わたしのほうだと指摘している。
On the other hand, in the earlier, much shorter story I did, back in the late forties, he not only appeared in the flesh but walked, talked, went for a dip in the ocean, and fired a bullet through his brain in the last paragraph. (…) that the young man, the “Seymour,” who did the walking and talking in that early story, not to mention shooting, was not Seymour at all but, oddly, someone with a striking resemblance to —alley oop, I’m afraid—myself.
では我々は、「シーモア—序章—」や他のグラース・サーガの作品群において、 シーモア・グラースという男の直接的な存在をどこから読み取ることができるのだろうか。まず第一に(そして、唯一)挙げられるのは、「大工よ~/序章」、 「ハプワース~」に代表される、シーモアの手紙/手記に記された彼の言葉だろう。バディは、序章の中で詩人シーモアが生前残した詩については、権利の関係 で作中に引用できないと語っているが、彼の手記、手紙に関しては多くを〈原文のまま〉作中に記している。(余談になるが、「ゾーイー」に描かれたバディか らゾーイーへの手紙の中で、バディはシーモアの辞世の句〈The little girl on the plane/Who turned her doll’s head around/To look at me〉を引用している。詩人シーモアの詩が我々読者の目に触れうる稀少な事例だ。)ここで彼の書いた言葉について込み入った解釈をするつもりはないし、文 学を専攻しているわけでもないわたしの浅学でそれをするべきではないと思っている。ただ言えることは、そこには紛うことなく愛が綴られているということ だ。シーモアはバディやその他兄弟によって、あたかも形而上的な存在であるかのように描かれてはいるが、その実彼が彼の言葉で綴った端々には、弟、家族、 そして遍く人類に対して、とでも言えるかのような形而下への愛と敬意が覗いている。シーモアにとっての神(=キリスト)が決して形而上の存在ではなかった ということは「フラニーとゾーイー」における「太っちょのオバサマ」(=形而下のシンボル)の話からも推察できるが、だからといって彼が俗世間的な博愛主 義者であったと言えるわけでもなく、彼はその実俗っぽさや不純であることを忌む姿勢すらも手記の中で伺わせている。バディが序章で、シーモアのことを〈バ ランスを欠いたタイプの人間〉と評したのも頷ける、と思う要因のひとつだ。
さて、前述したように、「シーモア—序章—」はおよそ小説とし ての体を為していない、筋書きもなければ軸も見当たらない、読者を完全に置いてけぼりにしてしまうという意味ではサリンジャーの失敗作とのレッテルを張ら れることすらある物語だ。しかし、ここで考えるべきは、この物語に神の視点(=作者の意図)などというものが想定されていないということだろう。語り手は もちろん、シーモアの弟・バディであるが、彼は同時に「バナナフィッシュにうってつけの日」「テディ」「ゾーイー」「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」、そ して「ライ麦畑でつかまえて」の作者であり、バディとサリンジャーの間の隔たりはひどく曖昧だ。
通常〈一人称小説〉と呼ばれるものに登場する語 り手は、また一登場人物に過ぎない。ある一人の人物の視点から描かれた物語であるとて、その人物と作者(=神の視点)との間には、明確な隔たりがあるもの だ。つまり、語り手そのひとにすら、なんらかの形で客観が与えられているのが通常〈小説〉と称されるものであり、読者はそこから語り手を眺めることで彼/ 彼女を自分のうちに受け入れる準備を整え、彼らの主観にアクセスしていく。それを当然のことと感じるのは、ストーリーの存在を当然視するのと同義ではない だろうか。ある一定の時間軸方向に向かって進んでいく出来事の順列を眺めることは、決して主観そのものとはなりえない。わたしたちは、〈ストーリー〉とい うものを意識するとき、どうしたって登場人物の主観からは身を退かなければならない。そのとき逃げ出す場所こそが、作者の立ち位置であり、神の視点と呼ば れる場所だ。しかし、「シーモア—序章—」にはその場所がない。語り手・バディと作者・サリンジャーはあまりに近すぎて、我々はバディにアクセスしようと 試みたが最後、サリンジャーの元へ戻ることは出来ない。そして、彼らはこの作品において読者においての神の視点、すなわち客観の位置から追うことのできる ストーリーを、そもそも用意しようとはしていなかった——できなかったのだろう。この作品が、シーモアの弟・バディの主観それだけで出来ている限り、きっ とそれは不可能だ。
ほかの日の夜。これは読んでもらうためのものだ、ということを忘れてはならない。読者にこちらの所在を教えるのだ。親切にするのだ——自分には決してわからないけれども。
Another night. This is to be read, remember. Tell the reader where you are. Be friendly—you never know.
わたしたちは、この物語を読むにあたって、ストーリーという概念を諦めなければいけない。それは、単に物語性がない、という意味だけでもない。(もし、こ の物語を読んだとき、バディの言論が徹頭徹尾理解でき、彼の心情が自分のことのように理解できる、というのならまた別の話なのだろうけれど。そんな読者は そうそういないだろうし、恐らく期待されてもいない。)我々はきっとバディに共感することもできないし、彼を理解することすら出来ないかもしれない、とい う前提を認めるべきなのだ。登場人物が理解されない小説などというものがあっていいのだろうか? この問いは、その物語が神の視点を持ち、ストーリーを持 つ場合にのみ為されるべきものであろうと思う。「シーモア—序章—」は、バディ・グラースの主観そのものの物語だ。そこに、本来我々の入り込む余地は用意 されていない。文字も言葉も文章も行間も、読者のためではなく、バディそのひとのためのものだ。わたしたちはこれを読むために、もうひとつメタ的な立場に 身を置く必要があるだろう。本の外に身を投げ出すこと——つまり、サリンジャーが、どうしてバディにこう語らせたのかについて頭を悩ませるのではない。バ ディが、どうしてこう語らざるを得なかったかということに視点を移す読み方をすることだ。紙面に書かれている〈もの〉を読むのではなく、紙面に物語がそう 書かれているという〈こと〉を受け止める。バディはそう書いたのではない、そう書くしかなかったのだ、と物語を眺めること。それが正解であるか否かという 問いはこの場合に限っては意味を持たない。そうやって自分という読者を本の外に放り出したとき、はじめて、わたしたちにはこの物語が〈物語〉に見える。 シーモアという名の兄について、こう書くことしか許されなかった弟・バディがいるのだという〈こと〉。それに気づいたとき、ようやく、シーモア・グラース という男の肖像は、我々にとっても意味を持つものになるのだろうと思う。
本当のところを言えば、シーモアの死についても書いておきたいこ とはいろいろとあるのだが、それこそわたしの手には負えない最たるもののひとつだ。バディは、「シーモア—序章—」の文中では以下のように語っており、そ れを自らの〈信念(My credo)〉だと言い切っている。
わたしの言わんとすることは、真の芸術家たる見者、すなわち美を生みだす力を持ち、実際に美を生みだす神々しい愚者は、主としてみずからのためらい、みずからの神聖なる良心の目くるめく形象や色彩によって目がくらみ、死に至るということである。
I say that the true artist-seer, the heavenly fool who can and dose produce beauty, is mainly dazzled to death by his own scruples, the blinding shapes and colors of his own sacred human conscience.
彼 がなにを思ってピストルの引金を引いたのかは、「バナナフィッシュにうってつけの日」から読み取ることは出来ない。ただ、彼が自分自身について語った言葉 の中で、彼の死に直接的な関連を持ちそうなものをいくつか拾い上げておこうと思う。シーモアの死は自殺だったのだろうか? 自殺とは絶望の果てになされる ものでなければならないのだろうか? わたしは、彼の死は必然であったような気がしてならない。「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」 という有名なサルトルの言葉を聞いたとき、わたしの脳裏に浮かんだのはこの男のことだった。彼は死ななければならなかったのではないのだろうかと、わたし はそれなりに真剣に思っているが、それを根拠づけるだけの論拠も学識も持たないのが残念なところではある。
ああ、もしぼくに病名をつけるとしたら、さしずめ逆パラノイアといったところだろう。ぼくは、みんなが画策しているような気がするのだ、ぼくを幸福にしてやろうとして。
Oh, God, if I’m anything by a clinical name, I’m a kind of paranoiac in reverse. I suspect people of plotting to make me happy.
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」
Raise High the Roof Beam, Carpenters(邦訳:野崎孝)
ぼく個人は少なくとも手入れの行き届いた電信柱くらい、つまり三十年も生きることになるだろう。
「ハプワース16, 1924」(邦訳:原田敬一)
ぼくらは自分たちに与えられた機会と義務を全うした暁には、これまでになかったほどの安らかさと気分で、気晴らしにこの世を去るのだということをはっきりと言っておこう。
「ハプワース16, 1924」(邦訳:原田敬一)
最後に。冒頭に引用したのは、「シーモア—序章—」にバディが引いた、シーモアからバディへの手紙の中に認められた一節である。小説家であるバディが、 シーモアに自分の物語を評させた際に受け取った手紙だ。なにを差し置いても美しい文章だと思う。この後シーモアは、バディが自分の職業を〈著述業〉と記し たときのエピソードを引いて、バディにこう語りかける。
ものを書くことがいったいいつおまえの職業だったことがあるのだい? それは今までおまえの宗教以外の何ものでもなかったはずだ。そうだとも。
When was writing ever your profession? It’s never been anything but your religion. Never.
ここに現れるシーモアが、預言者的にバディに語る言葉はとにかく美しい。それでいて、(部分的にはこの前でだが)シーモアはバディと自分が決して隔絶された他人という存在ではないということすら語るのだ。
おまえとぼくがときどき同じような話し方をするのがそんなに悪いことだろうか? ぼくたちの間にある皮膜は限りなく薄いのだ。おまえとぼくのどっちが言った言葉かということをたえず気にすることがそれほど需要なことだろうか?
Is it so bad that we sometimes sound like each other? The membrane is so thin between us. Is it so important for us to keep in mind which is whose?
兄弟がある種のアイデンティティを共有することに対するシーモアのこの肯定が、バディにどれだ けの影響をあたえたかは知れない。だからこそバディは自らの中に兄・シーモアを求め続けるのではないかとすらわたしは思う。兄を語り、兄を描くことで、こ の世界から損なわれてしまったシーモア・グラースという存在を再構築しようとする、弟バディの紙面上での孤独な奮闘。それが如何なる形で、如何なる苦悩の 元為されているかという視点に立ったとき、わたしたちはこの複雑で難解で筋の読めない物語を、そうである/そうであるしかなかった〈こと〉として読むこと ができるだろう。語り得る言葉を尽くして兄を追おうとする、バディ・グラースというひとりの人間の生がそこにあったという〈こと〉として。
--------------------------------------------------------------
文中の引用は、特に表記がない限り「シーモア—序章—」(Seymour: An Introduction)による。(邦訳:井上謙治)