愛着についての困難感、向き合い方の一例 その1

<愛着についての困難感、向き合い方の一例>シリーズ、その1です。

前書きにて紹介しましたが、私は自分の愛着についての困難感と向き合う中で、自分の中に生じた変化として以下の3ステップを実感しました。
1. 自分の負の感情(つらい気持ち)に気付くこと
2. 負の感情を受けとめた上で、受け流せるようになること
3. 自分と他者とを同等に尊重できるようになること

おそらくこの記事を読んでいる多くの方は、ステップ1、もう自分自身が「なんだかしんどい」ということには気付いておられると思います。
本記事では、ステップの1と2を一連の流れとしてとらえ、「負の感情(つらい気持ち)に気付き、それを受けとめた上で受け流す感覚」について、一般的にそれができるようになる過程と、実感としてどういう感覚なのかという2点を掘り下げています。

他記事は以下リンクからどうぞ。

<愛着についての困難感、向き合い方の一例>シリーズ一覧
前書き:「愛着についての困難感と向き合うステップ概略」
具体例として、私の経験をかいつまんで紹介。
★その1(本記事):ステップ1「自分の中の負の感情に気付く」→ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」
これができるようになる一般的な過程と、それができているときの私の主観的な実感・感覚について、できるだけ詳しく説明。
その2:ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」
技術の習得個人的に試してみた方法と、その効果の大小を主観的に比較。
その3:ステップ3「自分と他者を同等に尊重する」
今後の抱負も兼ねて、今取り組んでいることを紹介。
最後に:「まとめとエール」
シリーズの総まとめとエール。

負の感情に気付くこと

まずはここがスタートラインです。
劣等感、罪悪感、虚しさ、苛立ち……そういうこまごまとした感覚をひっくるめると「なんか不愉快な気分」といえると思います。
自分の「日常における何だか不快な感じ」を認識するところから、愛着スタイルにまつわる日常的なやりづらさを制御する作業が始まります。

さて、これは個人的な感覚で、おそらく愛着に困難感のあるほかの方もそうではないかと思うのですが、みなさんは日常で一般的には大したことがなさそうなストレス因子に曝されたとき、その些細な負の感情をきっかけに苛烈な情動に苦しみがちではないでしょうか?

私は思春期~青年期にこの苛烈な情動に苦しみ、日記や自己分析の記録をつける中で、自分の負の感情をこれでもかというほど詳細化していきました。
今日こんなことがあって生じた絶望的な「劣等感」、あの日から片時も忘れられない「罪悪感」、この虚無感とあの虚無感はどこがどう違うのか、それとも同じなのか、いつ生じていつ消えたのか、どんな身体感覚を伴うのか……。
今自分を苛む生理的不快感を制御できず、その理由もわからず、ただ衝動的に書くことでしか自分を紛らわせなかったのだという気がします。

あらためて振り返ると、これは「今ここに生じた負の感情」につられて、過去のどこかで深く刻みつけられた「苛烈で嫌な情動の記憶」が呼び覚まされてしまうためだったろうと思います。

よって、「今ここにある負の感情」をコントロールする助けになるのは、こうした「苛烈で嫌な情動の記憶」と距離をおく感覚を手に入れることだと考えます。
この最初のステップ「負の感情に気付く」段階では、まず、このように過去にさかのぼって負の感情の出どころを詳細化するというより、むしろ「今、なんかよくわからんが非常につらい」というくらいに負の感情の「存在」を大枠でとらえるのがポイントです。
重要なのは、「どんな」負の感情が存在するかというより、負の感情が今ここに「存在するか否か」

過去の苛烈で嫌な情動の記憶を、理性の上だけででも突き放そうと試み、今自分がつらさを感じたのだという事実に焦点を当てるよう試みることが第一歩です。

注意点:これは「トラウマの『克服』」の話ではない

ここから私が展開しようとしているのは、「何気ない日常生活の場面に起因する負の感情」に対する耐性を育てる方法論についての話です。
より詳しく言えば、「嫌な情動の記憶」を核とした「今ここの何気ないストレス因子」への過剰反応、「何気ない負の感情が、際限なく濁流化してしまう苛烈な状態」を、いくらかマシにしたい、マシにするにはどんな方法がありうるのか、という話です。
「根本的なトラウマの克服」についての話ではありません。

トラウマ経験は、「受けとめようのない負の感情」が伴うからこそトラウマなのです。
それを受けとめようとする必要はありません。

負の感情を受けとめた上で受け流す

それでは本題です。
まずは、一般的に人が自分の負の感情に向き合えるようになる過程をみてみます。

一般に、人が自分の負の感情に向き合えるようになるには

自分の負の感情を呼び起こすような困難に出くわしたときに、『その不安な気持ちを共感的に受けとめたうえで不安をほぐし、自分なりに困難に対処してみるよう勇気づけてくれる』他者

が必要とされています。
さらに

『未熟なりに努力した』ということを、結果に関わらず褒めてくれる他者

がいるとなおベターです。

これはなぜか?

他者からの共感と労わりは

「『自分はこう感じるんだ!それでいいんだ!』と自分の気持ちに根拠のない自信を持てるようにするため」(感情の自明性を直観的に信じる技術の獲得)

自分なりに困難に対処することへの勇気づけは

「自律的に成長するのは良いことだと無意識のレベルから条件づけるため」(「生理的な心地よさ」と「成長しようとする行為」との刷り込み的な結び付け)

結果に関わらず努力を評価されることは

「現時点での未熟さを許しつつ、自律性を良いことだと無意識のレベルから条件づけるため」(「生理的な心地よさ」と「自律性」との刷り込み的な結び付け、「生存」の許可)

……という具合にそれぞれ役立っているのだと思います。

総じて、私は自分が「負の感情を受けとめた上で受け流せる」ようになる上では、「感情の自明性(自分はこう感じるのだからそれでいい、という確信)」と「安心感・安全が保障されている感覚」を自分の中に刻み付けていくことが重要だったと実感しています。

(私がこれらを「重要だな」と感じる実感を補強するものとして、フロイトの考えを軸にクラインが提唱した「対象関係論」という論があります。ここでは冗長になるので、別記事にて私なりに要旨を紹介してみます。)

それでは、なぜ、これらを重要だと感じるのか?
「負の感情を受けとめきれない」感覚と、「負の感情を受けとめた上で受け流している」感覚の大まかな違いを主観的に説明しながら、その理由をお話しします。

「負の感情を受けとめられるか否か」、実感上の違い

まずは概観です。
負の感情を受けとめられるか否か、両感覚の主観的な実感上の違いを端的に言えば、安全なメタな視点の有無だと思います。

「負の感情に向き合えない」ときには、半分しかないコップの水の中に溺れている
「負の感情を受けとめた上で受け流せる」ときには、半分しかないコップの水を安全なメタな視点からしんみりと眺めている

半分しかないコップの水の中に溺れているときは、自分が今死にそうに苦しいということは理解しているのですが、恐ろしいことに「コップの水が半分しかない」ことは意識しているようでいて全くしていません
逆に、半分もあるコップの水の中を泳いでいるときには南の海でスキューバダイビングでもしているような快感ですが、やはり「コップの水が半分もある」ということはしっかりとは意識していないのです。

(「そんな馬鹿な……実際、私つらさを自覚しているし、その原因も知ってますけど……」と思うかもしれませんが、これは本当にコップの水から上がってみないとわからない感覚です。3次元に棲む我々が4次元を知覚できないのと似ています。)

ひとつ前の項目で、「負の感情を受けとめた上で受け流せる」ようになる上では、「感情の自明性」と「安心感・安全が保障されている感覚」を自分の中に刻み付けていくことが重要だと書きました。
これについて、私の実感上の理由づけを説明すると、こうなります。

安心感」を刻み付けることが重要だというのは、その安心感がそのまま「コップの外の安全なメタな視点」になっていったと感じるから。
感情の自明性」が重要だというのは、(安心感という足場を前提として得た上で)自分の感情に自分で気付くために必要だと感じるから。

さて、概観の説明はこれで終わりです。
以下では補足と題し、コップの水から上がる具体的なイメージをもつための足がかりとして、両感覚の違いをできる限り主観的に、詳細に説明してみます。

補足1:「負の感情を受けとめきれない感覚」を主観的に説明してみる

先述の、「半分しかないコップの水に溺れる」感覚です。
おそらく、当事者の方はそれぞれ嫌というほど知っていると思いますので、ここに書いてあることは読まなくていいです。
ひょっとすると、自分のしんどさを思い出してしまってきついかもしれません。
以下、飛ばすべき部分に網掛けしておきます。

私自身、文面にまとめるだけでも、この感覚を思い出して芋づる式に「コップの水の中」へ引きずり込まれてしまいそうになります。
踏みとどまれるのは、コップの外の世界の感覚を知ったからです。

先にも示しましたが、過去の強烈な嫌な記憶は「情動の記憶」として嫌でも思い出しがちなので、思い出しそうな「きっかけ」は積極的に遠ざけていくことが重要です。
いのちだいじに!
次の項、補足2:「負の感情を受けとめた上で受け流せる感覚」を主観的に説明してみるに進んでください。

それでは、当事者の感覚に興味がある方だけどうぞ。

私の場合、「自分の負の感情を受けとめきれない感覚」というのは2種類あります。1つめは「『生理的な不快感』の濁流にのまれて、その濁流を何度も思い返しながら性質を精緻に眺めてしまいたくなる(頭の中で「今まさに」苛まれ続けていて、そこから逃れようとしきりに弁明する)」感覚です。2つめは「『生理的な不快感』の存在を頭の片隅で理解してはいながら、それがどこにあるのかはよくわからない(釈然とせず、虚しい)」という感覚です。

前者は、私の場合は、何かしらの失敗をしたとき(またはそれを指摘されたとき)に陥りがちなパターンです。
動悸、震え、体のこわばりなどを伴います。
おそらく、幼少期に養育者からしつこく失敗を糾弾された経験が核にあるのだと思います。
人それぞれだとは思いますが、過去にすごく嫌な経験をして、それを思い起こさせるような経験がまた生じたときに陥りがちなパターンなのではないかと推測しています。

後者は、まだ自分の中でも解釈しきれていないのですが、「何かを感じようとする自分を抑えこむ」感覚(抑圧に近い?)なのかな……と今のところは考えています。
人との会話中に迫ってくる孤独感や、ひとりでふと我に返る瞬間の虚無感をここに分類しています。

「負の感情を受けとめきれない感覚」の説明はここまでです。

補足2:「負の感情を受けとめた上で受け流せる感覚」を主観的に説明してみる

先述の、「半分しかないコップの水を、安全なメタな視点から眺める」感覚です。
イメージを説明してみます。

まず、前提として「安定した気分」・「安全を保障された感覚」が根底に持続していて、自分はその安全なフィールドに立っています(はっきりとした高揚感・快感はないけれど、退屈と紙一重の「ホッとする感覚」がある感じです)。
何か嫌なことがあると、安全なフィールドの一角に設けられたワーキングスペースに、その「嫌なもの」が手ごろな扱いやすい大きさの物体としてひょいと乗っけられます。
自分はそのワーキングスペースに近づいて行って、その「嫌なもの」を五感と頭とで「これ嫌だなあ」「やらかしたなあ」などとしみじみと眺めたあと、とりあえず横に置いたまま別のワーキングスペースに目を移して行動にとりかかる。
「さあ、気持ち切り替えてやることやらないとな……」と。

そういう感じです。

初めてこの感覚を味わったときには、「これがメタな視点というやつなのか」とひっそり感動しました。
それまでは、周りの人々が平気そうにストレスをやりすごしているのをみて「なんであんなに平気そうなんだ?嫌な気持ちを起こさせる対象を、意識の視界から意図的に消すのかな?」などと思っていましたが、どうやらそうではないな、と。

未経験の方にはぜひ一度経験してみて頂きたいです。

=====

それでは、本記事はここまでです。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
次記事では、こうした「負の感情(つらい気持ち)に気付き、それを受けとめた上で受け流す感覚」を得るまでに私が試した方法について、その効果の大小などをやや具体的に掘り下げます。

→ 次記事はこちら その2:ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」技術の習得

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