「でんでんむしのかなしみ」によせて
新美南吉の童話で、「でんでんむしのかなしみ」というのがある。
ある日、でんでんむしは、自分の殻の中にかなしみばかりが詰まっていることに気付いてしまう。落ち込んだでんでんむしは、知り合いのでんでんむしのところへ出向き、自分の殻はかなしみでいっぱいなのだと吐露する。すると知り合いのでんでんむしは、「あなたばかりではありません」と、自分の殻もかなしみでいっぱいだと答える。その後も知り合いのでんでんむしたちを次々と訪ねるが、どのでんでんむしの殻の中もかなしみでいっぱいなのである。最初のでんでんむしは、自分のかなしみは自分で請け負うものなのだと納得する。
おおむね、こんな話だ。
幼いとき、私はこの話が苦手だった。「なぜ、どのでんでんむしもはじめのでんでんむしを慰めないのだろう……自分が悲しみを持っているということは、相手の悲しみを慰めないでいることへの理由になるのかしら」と悲しい気持ちになってしまったのである。
しかし、今になって考え直すと、別に他のでんでんむしたちが最初のでんでんむしを慰めなかったわけではないのかもしれないと思うようになった。
人は自分の悲しみを他者に打ち明けて、「きみばかりでなく、僕もそうだ」と打ち明け返されるとき、何を思うのだろう。そもそも、何を求めて悲しみを打ち明けるのだろう。
我が身を振り返ると、決して「この悲しみをどうにかしてほしい」という実用的な理由でだけ、他者に悲しみを打ち明けるのではないと感じる。
ただ、自分が悲しみを抱えていることを誰かに知ってほしい、というだけのような気もする。
もっと平たく言えば、単に寂しく人恋しいだけなのだ。
「悲しい」「実は僕も悲しい」と打ち明け合うとき、互いに目を伏せるのではなく、互いの瞳の奥を、労りと祈りを込めてじっと見つめ合うことができれば、案外、それだけで何となく満足してしまえるようにも思う。
最初のでんでんむしも、知り合いのでんでんむしたちを訪ねる中で、皆とは言わずとも、いくらかのでんでんむしとは深く眼差しを交わし合ったのではないだろうか。
実際、悲しみをひとりで耐え抜くのは無理だ。
誰もが悲しみを持っているのだと知り、また、自分が誰かの悲しみに思いを馳せるのと同様に、きっと誰かが自分の悲しみに思いを馳せていると納得するとき、ただ信じることだけの、それだけの淡い繋がりが、自分の奈落に風穴を開ける瞬間もあろうと思う。
現実において、誰かに「僕は悲しみでいっぱいだ」と打ち明けられたとき、相手の瞳を真正面から見据えて「実は、自分もそうだ」と、自他へ同等の労りを込めて呟くことができるだろうか。
私にはまだできない。きっと安直に、相手を慰めることに逃げてしまう。あるいは、ただじっと相手の瞳を見つめてしまう。
「自分もそうだ」と、真正面から視線を合わせ、祈りを込めて呟きかえすことができるようになったとき、初めて何かが自分の中で大きく変容しそうな気がしている。