愛着についての困難感、向き合い方の一例 その2
<愛着についての困難感、向き合い方の一例>シリーズ、その2です。
前書きにて紹介しましたが、私は自分の愛着についての困難感と向き合う中で、自分の中に生じた変化として以下の3ステップを実感しました。
1. 自分の負の感情(つらい気持ち)に気付くこと
2. 負の感情を受けとめた上で、受け流せるようになること
3. 自分と他者とを同等に尊重できるようになること
前記事では、ステップ1~2ができるようになる一般的な流れとその主観的な感覚を説明しました。
本記事では、現状として「負の感情を受けとめた上で受け流す」ことができない方むけに、この技術の身につけ方について考えてみます。
他記事は以下リンクからどうぞ。
<愛着についての困難感、向き合い方の一例>シリーズ一覧
☆前書き:「愛着についての困難感と向き合うステップ概略」
具体例として、私の経験をかいつまんで紹介。
☆その1:ステップ1「自分の中の負の感情に気付く」→ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」
これができるようになる一般的な過程と、それができているときの私の主観的な実感・感覚について、できるだけ詳しく説明。
★その2(本記事):ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」技術の習得
個人的に試してみた方法と、その効果の大小を主観的に比較。
☆その3:ステップ3「自分と他者を同等に尊重する」
今後の抱負も兼ねて、今取り組んでいることを紹介。
☆最後に:「まとめとエール」
シリーズの総まとめとエール。
目標の大枠は「『感情の自明性』と『安心感』を実感する」こと
前記事で紹介しましたが、個人的には、「負の感情を受けとめた上で受け流す」ためには、「安心感」と「感情の自明性」を実感することが目標として最も重要だと感じます。
安心感を実感するとは、「安心感」・「安全が保障されている感覚」をできる限り当たり前に維持しておくこと。
これによって、自分の負の感情を安全な場所から品定めする場所、すなわち「半分しかないコップの水」の外の安全なメタな視点をつくります。
感情の自明性を実感するとは、「自分はこう感じる!そこに理由はいらない!」と根拠のない自信を持つこと。
これによって、自分の感情を素直に受け入れることができ、負の感情についても(ささやかな程度のものであれば)気付けるようになります。
この2つに向かっていくよう心がければ、具体的な方法については基本的にどういうやり方をとっても問題ないと思います。
この2つは互いに補強し合う因子だと感じるので、どちらを優先した方がいいというのは言いづらいところですが、しいて言えば「安心感」の確保を優先した方がよいと思います。
安心感という足場をメタな視点にしなければ受けとめがたい感情(とくに負の感情)が存在するからです。
また、いかに安心感という足場が充実しようと、受けとめきれない負の感情というものは存在します。
それを「トラウマ経験」と呼ぶのです。
これに関しては私も過去の「苛烈で嫌な情動の記憶」として自分自身で未だに持て余している部分です。
経験上、今を平穏に暮らそうと思うなら、そういう嫌な情動の記憶を「思い出しそうなきっかけ」への嗅覚を磨いて、その気配を察したらできる限り遠ざけることが重要だと感じています。
そして、もし運悪くそういうきっかけに出くわして「半分しかないコップの水の中」に落ちて溺れてしまったら、そのときはもう「今ここにある安心感を貪欲に求めて少しでも気を紛らわし、ときがすぎて情動が薄れるのをひたすら待つ」ことです。
そういうときに縋るべき「安心感」がない場合がいちばん苦しいのです。
だからこそ、日常の中の何気ない安心感への嗅覚を磨き、普段から貪欲に安心の種を探しましょう。
まずは「何はともあれ安心感が最優先」と心に刻んでください。
すぐには成果が出づらく、果てしない道のりのように感じるかもしれませんが、何ごとにも遅いということはありません。
幼少期に機を逃した自覚のある方は、長い人生の暇つぶしにでも試してみてください。
注意点いろいろ
さて、注意点を掲げておきます。
先の目標ほど優先度は高くありませんが、できるなら心がけるのが望ましい点です。
ポイントは、「誠実さ」と「没入感の自覚」を目指すことです。
まずは「誠実さ」について。
ここに挙げたのは、大きくとらえると「自尊感情を育てる作業」の一種ですが、作業中に盲点となりやすいのは「つい社会的に自己中心的な行動をとってしまいがち」になるということです。
大人の我々にはすでに社会的な役割や責任があり、自分を労わることに没入しすぎると周りの人々に強烈な負荷をかけうることもまた事実で、うっかりとりかえしのつかないことをして後悔したり、それをきっかけに手ひどく責められるなどして「嫌な情動の記憶」が揺り起こされたり、というのもなかなか気が滅入るかと思います。
だからこそ重要なのは、自分に可能な範囲で(つまり過度な自己犠牲を伴わない範囲で)「誠実さ」を心がけることです。
明確な基準がないのが難しいところですが、
「誠実さ」というキーワードを頭の片隅にとどめておき、その自分なりの表現の仕方について少しずつ考えていくといいと思います。
次に、「没入感の自覚」について補足します。
私はどうしても他者を信用しきれず、誰にも頼ることなく手当たり次第に愛着への困難感に向き合おうとしてきたのですが、このように「ひとりきりで」の作業だと、はじめのうちは
「安心感」を実感する作業が、「(半分『も』あるどころか)満たされたコップの水の中にどっぷり浸りきる」作業にすり替わりがちです。
両者は似て非なるものです。
重要なことなので何度でも説明します。
「安心感」の実感が必要なのは、満たされたコップの水を外から眺める場所、「安全な、メタな視点」をつくるためです。
「満たされたコップの水の中にどっぷり浸りきる」と、その逆をいくこととなり、しかもその高揚感によりコップの外への興味が失せていきます(私の場合はそれでかなり回り道をしました……)。
「満たされたコップの水の中にどっぷり浸りきる」高揚感に比べると、メタな視点としての「安心感」は非常に印象が薄く、通り過ぎがちですが、その「ちょっと退屈だけどなんとなくほっとする」感覚が非常に大事です。
肌触りのいいタオルで手を拭う、日向で眠くなる、むちゃくちゃ旨くはないけどまあまあ旨い飯を食う、微笑して挨拶を交わす……その程度の「あえて話題にするほどでもない」安心感の積み重ねが効いてきます。
これも、少し意識してみてください。
概略と注意点は以上です。
以下では、例として私が闇雲に試してきた取り組みをいくつか挙げつつ、「感情の自明性」と「安心感」の2軸にどれくらい効果があったかをふり返ってみたいと思います。
品書きは以下の4つです。
○安定した愛着スタイルの人と関わる
○規則正しい生活を心がける
○日記・自己分析
○ひとりカウンセリング
「安定した愛着スタイルの人と関わる」
これがいちばん手っ取り早く、確実な方法です。
「安心感」も得られ、「感情の自明性」の補強もできます。
私が「安心感」に気付いたきっかけは、安定した愛着スタイルの人との何気ない世間話の中で、「共感」や「労わり」を得たことです。
「へえ~、それに興味があるんだ、いいね」とか「そんないいことがあったんだ、よかったね」などの相槌は、ひとりでは得難い幸せをくれます。
よく子どもが親から与えられる類の相槌だと思うのですが、共感に飢えている方はぜひ、穏やかな上司や穏やかな友達をみつけてこういう相槌をもらってみてください。
穏やかなカウンセラーを探すのもよいのでしょうかね(私は結局カウンセリングを受ける勇気がなかったので、この点はあまり自信がないです)。
あとは、面と向かっての対人関係が無理ならSNSでもいいですし、人畜無害な会話をそばで聞くとか、文面でみるのも少しは有効でした。
ただ、いちばんいいのは面と向かって行うコミュニケーションです。
「最近寒くなりましたね」「本当にそうだよねえ」とか、「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」くらいの会話でもいい。
いったん、そこにホッとするものを見出せると、いかに自分がその共感に飢えているかがわかります。
相手が同じ意見を持っている必要はありません(逆に、完全な同意見を求めすぎると「満たされたコップの水の中」に浸かってしまいがちなので注意が必要です)。
これは会話の技術、コミュニケーションの儀式としての「ワンクッション」であって、そのワンクッションこそが「安心感」や「感情の自明性」に大切なのだと思います。
私個人としては、そうした相槌を受けるたび、「安心」すると同時に、「そうそう、私、そう感じるんですよ!」と「感情の自明性」を実感する感覚も補強されていきました。
世間話と相槌でほっこりする感覚を育てつつ、徐々に具体的な話題を共有したり議論したりできるようになると幸せですね。
「規則正しい生活を心がける」
生理的な心地よさを保つことで、「安心感」を保つ試みです。
ある程度、生活の場において自分の身辺を整える自由さがある方に向いている方法かと思います。
(逆に、生活の場において自分の身辺を自分で整える「意思決定の自由さが無い」または「誰かに必要以上に厳しく行動を制限されている」という方は、その場から逃げることも検討してみてください。)
具体的には、衣食住の整備や、適度な運動、適度な睡眠、などにより自分を労わることです。
身体的・生理的な居心地のよさは、精神的な心地よさと同等に重要です。
「表裏一体」という側面もあり、身体的・生理的に心地よければ、いくらかは精神的にも安定しますし、その逆もまたしかりです。
恥ずかしながら、私の場合は「規則正しい生活」というキーワードそのものが長らく地雷だったので、いまだに規則正しい生活に根源的な苦手意識が少し残っています。
というのは、養育者から非常に手厳しく「規則正しい・公明正大な生活」を強いられていたためです(それをしなければ大声で執拗に扱き下ろされるなど)。
養育者に反抗するがごとく不規則な生活を極めた時期は、私にとっては少し苦い思い出です……。
「規則正しい生活」の心地よさをしみじみと感じられるようになってきたのは、社会人になり、自分が自由にできる物理的領域を手に入れてからです。
個人的には、「規則正しい生活」のよさを実感できるようになるのは経済的に自立してからでも別に遅くはなかったなと思います。
経済的に自立できない段階では、まずは外の世界での自分の居場所を整えるとか、死なない程度の健康・清潔さを保つよう心がけるくらいでいいのではないでしょうか。
健康的な習慣は、だいたいちょっと労力を要することが多いですが、やってみるとどれもハズレがない気持ちよさが返ってきます。
できる範囲で、自分の身体を労わってみてください。
「日記・自己分析」
個人的には、諸刃の剣、という感じがする方法です。
私にとっては「ひとりきりで、自分にしかわからない感情を、自分で責任をもって言語化する修行」という感じでした。
少なくとも、ここから直接的に「安心感」を得ることは難しい気がします。
しかし、何でもいいから気を紛らわしたい・衝動を発散したいときにはお勧めできます。
他の取り返しのつかない行動に走るよりはだいぶマシだと思います。
また、「安心感」を記録する方法(今日のこれがほっとした、など)としては有効かもしれません。
「感情の自明性」の補強という観点では、自己分析として自分の歩んできた道のりをふり返ったり、「あのときのこれはこうきつかったんだ」と文面にすることで「自分がこう感じていたという証拠」を残しつつ、自分で自分の気持ちを念押しすることができます。
「感情に理由などない」という感覚が身についてからふり返れば、「こう感じる自分は間違っているんじゃないか」などという罪悪感を抜きにして、「きつかったけど、このときはこう感じてたんだから、それが真理だったんだな」としみじみ思えます。
(私の場合は、自己分析の中で半信半疑ながらも自分の「感情の自明性」に気付き始めたために、それを対外的に表明する勇気が出てきた、というメリットもありました。)
注意点としては、「詳細を記録しよう」という気持ちが強ければ強いほど、作業中に主観的な感覚に没入しやすいことでしょうか。
つまり「コップの水の中」に落ちやすいです。
ひとりでの作業なので、没入しても気付きづらかった気もします。
一概にそれが悪いことというわけでもないのですが、これがとにかくエネルギーを消費するので疲れるのです……。
そういう意味でも、これは「安心感」を得るというより、やはり「修行」であるとか、またあえて自分を疲れさせて「衝動を発散」するといった側面を強く感じます。
自己分析という方法に関しては、少し前に振り返りをこちらの別記事にてまとめてあります。
この時期はまだ自分自身が「安心感」を保持できるところまで至っていないので、それについての言及はあまりありませんが、ご参考までに。
「ひとりカウンセリング」
人間不信と寂しさを同時にこじらせ、かつ、人に話しかねる鬱憤が限界に達していた時期に私が行っていた方法です。
やはりこれも「修行」「衝動の発散」の一種で、快感を求めるというよりはストイックさを追究するくらいがちょうどいいと感じます。
逆に、下手に「快感」を求めると理想化した自己像が肥大していく(つまり満たされたコップの水の中に浸りきってしまう)こともあるのかな?……という点が気がかりです。
向き不向きがあると思うので積極的にはお勧めしませんが、やってみたい方は自己責任でどうぞ。
どういうことをするかというと、自分の考えを代弁する「話し手」と、それに相槌を打つ「聞き手」という役割を用意して、会話・台詞形式で自分の思ったことを無目的に文書化していくのです。
話し手「ほにゃらら」
聞き手「(相槌)」
話し手「ほにゃらら」
聞き手「(問いかけ)?」
……
こんな具合に、会話を想定して愚痴ったり、慰めや労わりを地産地消したりします。
……と、こうして冷静に説明するとひょっとしてやべえやつじゃないかという感じがしますが、当時は大まじめにやりましたし、今でも普通に真剣に取り組めます。
個人的には、自分の思考を「他者を想定してまとめる」ことで、「自分の思考を対外的に表現しようとしてみないとわからない感覚がある」ということを知りましたし、突発的な動揺を収める上では役だったと感じています。
また、地産地消とはいえ、慰めや労わりの形式にはいくらか癒されました。
「話し手」はそのまま等身大の自分でよいです。
コツは「聞き手」の設定にあり、こいつに適切な相槌と問いかけをさせることが重要です。
つまり、「話し手」に対する共感を示しつつ、没入させない、かつ、「聞き手」自身には何かを判断する返答を極力させない、意思決定は「話し手」に委ねる(メタで中立的な視点を意識する)姿勢を保たせるのです。
たとえば、
話し手「~が~だから、すごく不愉快だ」
聞き手「その考え方はおかしいんじゃない?/その考え方は正しいね」
とやると、これは聞き手が否定したり没入を促したりといった文脈になり、少し危険かなと感じます。
(単に対等な立場で議論をするような文脈ならば危険ではないときもありますが。)
私の場合、大抵は「なるほど」「そうなんだね」「そうなの?」「どうしてそう思うの?」「(中立的な解釈)ということ?」くらいのパターンの使い分けになります。
「聞き手」という役割を通じて、「安定した愛着スタイルの人のまねをしてみる」試みともいえます。
しかし、あくまで想像上の「まね」にすぎないということは注意点として頭の片隅に置いておいてください。
自分を実験台にして、容赦なく「共感と没入阻止」、「博愛と無関心」のさじ加減を極める修行をしたい方むけです。
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本記事はここまでです。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
次記事では、「負の感情を受けとめた上で受け流す」ことができるようになったあとに、どのように社会生活になじんでいくか、私なりに今苦戦していることを挙げつつ考えてみます。
→ 次記事はこちら その3:ステップ3「自分と他者を同等に尊重する」