愛着についての困難感、向き合い方の一例 前書き
近頃、幸いにもいつになく精神的に落ち着いた状態が持続しているので、自分にとっての覚書という意味でも、表題の件についてまとめてみました。
「愛着」に関する困難感により、人間不信と人恋しさの間を行き来し慢性的な気分の落ち込みを経験したが、そこからようやく立ち直りかけてきている――という過程についての体験談です。
私も、若いころはまだエネルギーがあり、落ち込んだり高揚したりという気分の起伏にも全力で没頭できていたのですが、ここ数年でそれに疲れを抱くようになり、「穏やかな気分」のよさに気付きました。
愛着の困難感を抱えていると、その「穏やかな気分」を掴み取りづらいのでは……と個人的には感じます。
私と似たような葛藤を抱え、「そろそろ穏やかに過ごしたいんだよね……」と感じている方のご参考になればと、一例として、感情の起伏への没入感から抜け出しつつある私の体験談をまとめてみました。
人それぞれに「愛着に関する困難感」を抱えるに至る「経緯」は違えど、困難感として成立した「心理の動きの表れ方」には相通ずるところがあると思いますので、このシリーズではその「表れ方」にできるだけ注目し、当事者としてどう御していくか、そのひとつの向き合い方を提案していきます。
長くなるので、いくつかに分割して掲載します。
本記事では、参考として私の経験の概観と、愛着についての困難感と向き合ってきたステップをまとめました。
他記事は以下リンクからどうぞ。
<愛着についての困難感、向き合い方の一例>シリーズ一覧
★前書き(本記事):「愛着についての困難感と向き合うステップ概略」
具体例として、私の経験をかいつまんで紹介。
☆その1:ステップ1「自分の中の負の感情に気付く」→ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」
これができるようになる一般的な過程と、それができているときの私の主観的な実感・感覚について、できるだけ詳しく説明。
☆その2:ステップ2「負の感情を受けとめた上で受け流す」技術の習得
個人的に試してみた方法と、その効果の大小を主観的に比較。
☆その3:ステップ3「自分と他者を同等に尊重する」
今後の抱負も兼ねて、今取り組んでいることを紹介。
☆最後に:「まとめとエール」
シリーズの総まとめとエール。
私の「愛着に関する困難感」、端的にはこんな感じ
自己紹介を兼ねて、自分の愛着に関する困難感について簡単に説明しておきます。
私は、幼児期~青年期にかけて保護者から「人格形成のスタート地点に本来的な『脆さ・未熟さ』を言語(ときに非言語)表現によって徹底的に扱き下ろされる」経験をしました。
児童期は自分のストレスそのものを自覚していなかったのですが、思春期に完全に心が折れ、青年期に初めて自分の来歴についてはっきりと疑問を持ち、そこから自己分析を開始して今に至る人間です。
現状としては幼児期~児童期の情動的な経験の記憶が乏しく、自己判断で「愛着障害」とまでは言い難いのですが、物心ついてからの自分を当時の日記等から自己分析すると、やはり愛着スタイルについて何かしらの葛藤があるとは感じています。
この葛藤を主観的に平たくまとめると、「自分の突発的な情動を自分だけで処理できない(とくに、容易に不安に押しつぶされる)ため根源的に人恋しいのに、傷つきたくないがために人間関係を築くことは恐れる」性格に悩んできた、という感じです。
いわゆる「回避性パーソナリティ」に分類されるかもしれません。
あえて「愛着スタイルの型」に分類するなら、思春期には「不安」「回避」の双方が入り混じったような愛着スタイル、青年期に自分の来歴と性格について自己分析を始めて以降は「不安」の度合いが低くなり「回避」が顕著な愛着スタイルとなったと思います。
私の「育てなおし」の段階はこんな感じ
私が現状のように精神的に若干安定するまでには、いくつか段階がありました。
日常の場面で自分の変化を自覚したポイントは以下3つ。
1. 自分の負の感情(つらい気持ち)に気付くこと
2. 負の感情を受けとめた上で、受け流せるようになること
3. 自分と他者とを同等に尊重できるようになること
私の場合、1つめのポイントは思春期に、2つめのポイントは、青年期の地獄のような自己分析の果てに、ここ数年~数か月の間に徐々に経験しました。
3つめのポイントは、現在進行形で取り組み改善中の課題です。
1、2が「穏やかな気分」を手に入れる段階、3はその後に自分がどう社会生活になじんでいくかを考える段階です。
3については、1、2の段階を経て各々の人が自分なりに自由にやり方を考えていくところだと思いますので、例として私の考えを挙げてはいますが「こうすべき」などと強制しようという意図はないということを一応、念押ししておきます。
以下に、少し具体的な成り行きを書いておきます。ご参考までに。
<思春期>
○自分の劣等感・罪悪感に気付き、そのままそれに没入
○誰にも見せない日記をつくり、自分の気持ちを吐き出し始める
周囲と比較したときの自分の精神面の未熟さと、それに由来する劣等感・罪悪感に気付き、負の感情に苛まれる(気付く前までは努めて「感じない」ようにしていた)。
人間関係はほぼぶった切り、2、3人の友人とだけ差しさわりのない会話をするようになる。
劣等感・罪悪感に関しては「自分の未熟さに対して罰を受けるのでは」という恐れが強かったので誰にも相談せず、やり場のない気持ちを吐き出す目的で不定期の日記をつけ始める。
<青年期>
○自分の「劣等感・罪悪感の理由」、「つらい気持ちの正当性」を求める
○安定した愛着スタイルをもつ友人との出会い、交流の深まり
保護者のもとを離れた時期に、アダルトチルドレンやパーソナリティ障害、愛着障害などの概念を知り、「自分の来歴・保護者に問題があったのでは」と初めて明確に疑問を持つ。
その「来歴上の問題」を明らかにし、自分の現状の未熟さに正当な理由があることを証明したい一心で自己分析を開始する。
この間、「本当は自分の未熟さを他人のせいにして、困難から逃げたいだけなのでは。それは卑劣な行為では」という道徳的な葛藤に苛まれる。
人間関係については、相変わらず2、3人の友人とだけ差しさわりのない会話をする状態だったが、その友人がとても安定した愛着スタイルの持ち主だったため、交流を深めるうちに「安心感」という概念に気付きはじめ、自分の不安定さと向き合う余裕ができてくる。
<ここ数年~数か月>
○自分のつらい気持ちを、「正当性」にこだわらず受けとめ、受け流せるようになる
○自分の未熟さを、思い詰めることなく建設的に評価し、成長のための手立てを試行錯誤できるようになる
○人間関係の構築について、健全な興味を抱けるようになる
自己分析を経て、自分には来歴上の問題が「おそらく」あっただろう、といえる程度の「半信半疑の確信」を盾に、自分のつらい気持ちを公言するようになり、それに対するいたわりを友人等から得られたことにより「安心感」「安全が保障されている感覚」を学ぶ。
と同時に、「自分はつらいのだ」ということに気付き、その感情には論理的な正当性など必要がないということを実感する。
それ以降は、徐々に自分の感情にかかった靄が晴れ、「悲しい」「怖い」「苛つく」「嬉しい」などといった感情を実感できるようになるとともに、身体的な五感もやや鋭敏になる(飯が旨い、いいにおいがわかる、など)。
また、幸いにも社会生活において安定した愛着スタイルをもつ人間関係にかなり恵まれたことにより、「安心するもの」を素直に求められるようになり、人間関係に対する興味が芽生えてくる。
……概ね、こんな感じです。
しんどかった時期をふり返って気づく「認知の歪み」
本記事のまとめとして、私が最もしんどかった時期に没入していた自分の「盲点」、いわゆる「認知の歪み」について体験談を補足しておきます。
私が一番しんどかったのは、思春期に「自分の『未熟さ』に強固に結びついた劣等感・罪悪感に没入したこと」と、青年期にその未熟さ・つらさに養育者の責任が一枚噛んでいることを証明しようとして自己分析に没頭しながらも「これは自分の未熟さを他人のせいにして、成長を拒否しているだけではないのか。自分の行為は卑劣なのではないか」と常に道徳的な葛藤に苛まれたことです。
実はここに、私の「認知の歪み」が表れています。
おかしい点は以下の3つです。
1. 「未熟さ」を「悪い」とする無意識レベルの条件づけがあること
2. 「未熟さ」に論理的な正当性を求めずにいられないこと
3. 「つらさ」に論理的な正当性を求めずにいられないこと
大前提として、1. が存在し、そこから防衛機制の一種(知性化)として2. と3. が派生している構造です。
また、3. については、「自分の負の感情に向き合うことが耐えられない」感覚も原因のひとつとなっています(これについては次記事で説明しています)。
私があえてここにこれを例示した理由は、愛着に関する困難感を抱える人の多くは、
「こういうことがあって/あの人にこうされて非常につらかった、今でも思い出してつらいのだ」
という感情を抱えつつ、
「しかし、本当にそうだろうか?私自身が人一倍弱い/私自身に問題があるから、私がかってに落ち込んでいるだけなのではないだろうか。あの仕打ちにも一理あって、本当にダメなのは、それに落ち込む私の方ではないだろうか」
と自分を責めるのではないか、と思うからです。
単刀直入に言っておきます。
この世界に「本質的にダメ」な人はひとりもいません。
あなたはダメじゃないので大丈夫です。
この事実に理由はありません。
消え入りたいほど自分をダメだと思うなら、どんな理由付けがあろうがそれは認知の歪みです。
また、あなたをダメなやつだと手ひどく扱き下ろす奴がいるなら、その言動と思想こそがおかしいのです。
それに気付いてほしいということに念を押して、締めとしておきます。
元気だしてください。
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それでは、本記事はここまでです。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
次記事では、まず「自分の中の負の感情に気付き、受けとめた上で受け流す」という一連の心の動きを軸に、一般的にそれができるようになる過程と私の主観的な実感を紹介します。