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人間機械論-なったようにしかなってないこと
仕事の都合上、よく掛け算をする。
なぜか昔から暗算が上手い俺は、掛け算をするとなると俄然張り切り、誰よりも早く答えを出そうとする。「暗算の虚無・ラ・ガエリ」とは俺のこと。
だからふと疑問に思うのだが、みんなはどうやって暗算・計算をしているのだろう。
俺はたとえば28×6を暗算する際、小学校仕込みの表記法をとる。
まず28を書き、8の下に6を思い浮かべる。その後8×6をして繰り上げた4を2×6の答えに加えて計算する。これだけだ。たぶんこの方法を頭の中で行う人は少なくないのではないか。
だが、この説明は「どうやって暗算・計算をしているのか?」の問いに対して答えていないようにも思う。
というのは、細かく見れば上記の計算過程の「8×6」をしている時には俺自身が何かをしている感じが全くない。繰り上げた4を足す際もそうだ。
掛けるや足すって、何をしているのだろうか。
それは結局、2×6=12と書き、その後12+4=16と書くだけのことではないのか。これは計算過程ではなく、計算結果を連ねているだけではないのか。
書くだけなら、何の意味も分からない子どもでもできる。つまり、暗算や計算ができない存在でも可能ではないか?(ところで、「AIに心があり得るか」という問いを興味深くするのは、AIには計算過程がない(が人間にはある)という俺たちの常識である)
この計算過程と計算結果との違いは、一般に単純になればなるほど曖昧になる。
1+1=2を暗算、いや計算する時、俺はそもそも暗算・計算「する」という表現さえ不要に思えてならない。理にかなっていないが、計算しなくても当たり前だと言いたくなるのだ。
計算過程と計算結果の違いについて考えてみると、そもそも「どうやって何かを考えているのか」俺は全く分からないことに気付く。
考えることこそ、自分にとって明確で、疑いのないプロセスであると想定されがちだが、どうやって考え始めたのか、その始まりも分からないし、考えを終えるために何が必要なのかも分からない。気付いたら考えており、気付いたら考えなくなっている。
あなたも試してみるといい。どうやって考えているのかを心の中で眺めるのだ。
まず気持ちを落ち着ける。目を閉じるか半眼にして少し俯く、すると、この虚無・ラ・ガエリの文章は何を言いたいのか、そういえば夜ご飯をまだ食べていない、などを考えはじめるだろう。
ところで、どうやって考えたのか。
あなたは、考えた後のことしか知らないのではないか。
「なるようになる」のではない。「なったようにしなってない」のである。後の祭り以外に、祭りはない。