「ーじゃあ、付き合ってみます?」
この痛みが正しいものでなく誤ったものであると認めたのは、その日の夜だった。
痛みに""が付いてないから、なにか思想的な痛みではない。
スクワットで関節を痛めただけだ。フォームが乱れていたのだ。ゴムバンドで矯正しながらやった方がよかったみたいなのだ。
こんな具合で「疲労と教訓だけを得られた日」というのは、余裕を持って振り返られる前まで価値を持たない。
つまり、今のところ「徒労」という感が否めない。
昨夜はそんな日のそんな夜だったのだ。
意味を持たない疲れが、ただでさえ硬い床の硬さを強調する。
雨の音さえ実体のない不安をたたえるように思え、ひたすら何度も聞いたラジオで掻き消す。
うるさい。音量を絞る。さみしい。上げる。うるさい。音量を絞る。さみしいーこの不毛すぎる機械的な行動に終わりはないのだ。
掛け布団も外の微かな光さえも、俺を歓迎していない。何もない夜をまぎらわすために認識される、目と耳が冴えるだけの夜のつまらなさをこの瞬間に凝縮したみたいだった。
だいぶ前にどこかで逢った女の子と、ともかく仲睦まじくなっていたのを、思い出した。
どこなのか分からない、行ったことがあるのかないのかも分からない居酒屋で、チークとアルコールに頬を染める彼女だけがよく見える。
「ーじゃあ、付き合ってみます?」
「じゃあ」がなにを接続したものなのか知らないが、由来の分からない関係のこれからをはっきりさせたいと思った。彼女のことを、よく知りたい。
目が覚めると俺は、どうでもいいことで何でも笑っていける、世界に対する深い信頼と親しみを持っていることに気付いた。
その深い親しみを辿るとそこには、「だって彼女がいるのだから」とある。こんなに暖かい感覚、子どもの時以来だ。なぜ、忘れていたのだろうか?
「なぜ」と問う冷めた知性には誤魔化しが効かない。
結局は、あれは夢だったというだけだ。
「この現実」が「あの夢」に変わる瞬間、余熱だけが遺った。
俺は、「じゃあ」がもともと何を接続したものなのかも、どこに接続していくのかも夢に見ることができなかった。
それなのに、得体の知れない暖かさだけは得てしまった。記憶はないのに思い出のニュアンスだけを持っている。
俺は、俺の根っこに誰かがいて、その誰かがいるからここにいるのだと信じ切れる、あの状態の心地よさを忘れられないでいる。あの人は、彼女は誰なのだろうか?
俺は、由来の分からないこの暖かさに意味を持たせたくて、繋げたくて、せめて文章に遺している。
夢の続きをしているのだ俺は。
「ーじゃあ、付き合ってみます?」を、俺は、いやきっと退屈な日々を送る退屈な俺たちは、待っているのだ。
足はまだ、痛いままだ。
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