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ジョン・レノン最後の3日間 訃報を受けて…
1980年12月9日 イースト・サセックス州 Paul McCartney
ピースマーシュの別荘でジョン・レノンが射殺されたとの電話を受けたポール・マッカートニーは、自分が今聞いた言葉が信じられなかった。ジョンがいなくなったなんて、そんなことがあるはずない。
リンダは車寄せに一人立ち尽くしているポールに気づいた。彼は、妻リンダの腕の中で泣き崩れた。
「こんなこと、受け入れられないよ」
もともと共感しやすい性格のポールは、いま世界中の人が感じているであろう痛みも同時に感じざるを得なかった。
「多くの人にとって、ある意味ケネディ大統領暗殺のときのように衝撃的な出来事だったと思うよ…。僕は、もうジョンに会えないと思うと、そのことがただひたすら悲しかったんだ」
その後、スタジオを出る時、レポーターにコメントを求められたポールはうまく追悼の言葉が出ず「It’s a drag」と応えたことを非難する声も当時あったが我々には想像できないほどのショックと哀しみを受けていたに違いない。
George Harrison
ジョージは、訃報を聞いて短い声明を出した。
「打ちのめされて、呆然としています。人の命を奪うことは、最も忌むべき強奪行為です」
彼は、一人静かに悲しみに沈むことを選んだのか、沈黙を保った。
Ringo Starr
リンゴが訃報を聞いたのは、婚約者のバーバラ・バックとバハマで休暇中のこと。バーバラの娘が知らせてきたという。リンゴは新アルバム「Stop and Smell The Roses(バラの香りを)」を制作中で、ジョンも2曲、提供していて、翌1981年の1月には「Nobody Told Me」を一緒にレコーディングする予定だった。結局、2曲(「Life Begins at 40」)ともアルバムに収録されることはなかった。
「Nobody Told Me」は「ダブル・ファンタジー」の後に発表されたジョンのアルバム「Milk and Honey」に収録された。
リンゴは、2019年に「Grow Old With Me」をポールと一緒にレコーディングしている。
オリジナルのレコーディングは、リンゴ・スターが最近になってその存在について知ったというジョン・レノンのデモ音源の一部だった。この曲の冒頭でジョンが、「これは君にぴったりの曲なんだ、リンゴ」と言っていたとリンゴ・スターは説明する。
「生前、ジョンは僕のことを感情的な人間だと言っていました。そして、とにかく僕はこの曲が大好きで、最高のものにしたかった。ジョンのことを深く想うと、込み上げてくるものがあるんです。僕はベストを尽くしましたし、他のみんなもそうしてくれました」
「それからもうひとつ幸運だったのは、僕はどうしてもポールに参加してもらいたくて、彼がそれを快諾してくれたこと。スタジオに来たポールはベースを弾いて、僕と一緒にちょっとだけ歌ってくれました。僕とポールが(ジョンの曲で)歌っている。宣伝のためなんかではなく、ただそれがやりたかったんです。それから、ジャック(・ダグラス)が担当したストリングス・アレンジをよく聴いてもらえれば、ジョージ・ハリスンの‘Here Comes The Sun’の一節が入っているのがわかると思います。ですからある意味これは僕たち4人の曲なんです」
「Grow Old With Me」はジョン・レノンが生前最後に手掛けた作品のひとつで、彼が殺害される直前となる1980年、バミューダ諸島で書かれたものだ。その地で彼はデモをレコーディングしていたが、アルバム『Double Fantasy』の収録には間に合わず、同デモ音源は、ジャック・ダグラスがプロデュースを手掛け、ジョン・レノンの死後、1984年にリリースされたコンピレーション・アルバム『Milk and Honey』に収録された。
シンシア・レノン
シンシア・レノン(ジョンの前妻)は、リンゴの前妻モーリンを訪ねてロンドンに来ていた。
「シン、とても残念な知らせだ。ジョンが亡くなった」
リンゴからの電話を受けたシンシアは、ノース・ウェールズの自宅にいるジョンの長男ジュリアンのことを思った。17歳になったジュリアンは、ジョンと瓜二つの青年に成長していた。その年頃で親を失う経験がどんなものか、当時ジョンを真近で見ていたシンシアにはよくわかっていた。自分から伝えなければ、と思ったが、ジュリアンは目を覚ましてすぐ家の前に詰めかけた報道陣によって訃報を知ってしまっていた。
Elton John
乗っていた飛行機がメルボルンに到着した時、エルトン・ジョンは、しばらく機内に留まるようにと客室乗務員から告げられた。エルトンは不吉な気持ちでいっぱいになった。
マネージャーがコックピットから、目に涙を浮かべて席に戻り、ジョンの訃報を伝えた。
「信じられなかったよ。ジョンが亡くなったという事実も、あんな残虐な殺され方をしたことも、受け入れがたかった」
Julian Lennon
ジュリアン・レノンは、訃報を聞いた数時間後、ニューヨーク行きの旅客機に乗っていた。ダコタに到着したとたん、ダコタアパート周辺に集まった人の数に衝撃を受けた。父の死を悼む数千人ものファンたちが集まり、ジョンが書いた曲の数々を声を揃えて合唱していたのだ。
ジュリアンは、昨年(2022年4月)ウクライナ支援のため、初めて父ジョンのIMAGINEをヌーノ・ベッテンコートをギターに迎え、カバーした。
HERE TODAY by Paul McCartney
アルバム「Tug Of War」に収録された、ジョンの追悼曲「Here Today」には様々なフッテージが世に出ているが、ボクがたまに聞きたくなるのは2006年L.A.の Amoeba Records という大型レコード店での演奏だ。リンゴとバーバラもその場でみていたらしいけれど、途中、エモーショナルになり過ぎて声が詰まってしまうところで強く共感してしまう。
1990 Liverpool
Strawberry Fields Forever~Help~Give Peace a Chance
ポールによるジョン・トリビュート・メドレーで締めくくろう
「ジョン・レノン最後の3日間」
ジェイムズ・パタースン著 祥伝社