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16:苦しみから脱出する方法 もう一つの基本「気付き」中編 気付くための方法とは?

前回、「気付き=いつもやっている気付きと同じ」ということについて書きました。

今回は、「気付く方法」というか「気付くためにはどうすればいいか」について書いてまいります。

気付くためには?

まず気付く方法についてですが、これについては簡単な話で、「そんなものはない」が正解となります。

そんなぁ!と思われるかもしれませんが、これは当たり前の話で、気付きとは思考の檻、思考のコントロールの外側にあるので、恣意的にどうこうできるものではありません。

以前サイトで紹介した『釈尊の悟り』という本の中に「『悟り』とは直感的、受動的なもの」という記述がありましたが、「気付き」についても全く同じであり、直感的かつ受動的に発現するものであるので、いくら頭でウンウン考えたり「気付け~気付け~」と念じても無駄なのであります。

解説『釈尊の悟り』

ただ、気付くためには自分の思考をきちんと観察できた方が捗るので、前々回で書いた「21日間チャレンジ」をやって、自分の思考を観察することに慣れときましょう、というわけです。

気付きこそが「本当の自分」なのか?

あと、思い出したから書きますが、悟り系の本等にはよく「気付きこそが本当の自分である」なんて書いてあります。

私もここで「気付きこそが本当の自分です(迫真)」と断言したいところなのですが、正直言うとよく分かりません。

「自分が怒っていると気付くとき、その気付きは怒っていない」
「自分が心配していると気付くとき、その気付きは心配していない」
確かにそうだし、そういう実感がなきにもしあらずなのですが、断言できる程のものでもありません。

そもそも、ある種の「状態」について、頭でもって「これが本当の自分だ!」なんてやってしまうと、エゴは大喜びするし、その一状態、無常のうちの一状態ばかりを追い求めるようになって泥沼にハマるので、やっぱ分からないことは分からないまま放っておくのが一番です。

下らない条件付け

これは丁度、「悟りを開くと体中から光が出て全てに感謝できる」とか「悟りを開くと明鏡止水の境地に至り、決して怒ったり不安でなくなる」とか、そういう状態を追い求めるのと同じです。

そんなものは、ただの移ろいゆく中の一つの状態に過ぎず、あなたが頭の中で妄想しているほど大層なものではありません。

そもそもの話、「悟りを開いたらウルトラマンみたいに光を放つ」とか「悟れば明鏡止水に至る」とかいうのが、悟りに対するタダの愚かな条件付け、もっと言えばタダの寝言であり、寝言は寝てから言え、ということであります。

悟りについての究極の秘密

これだけ言っても、まだ「悟ったら良いことばかり起きるに違いない」「悟ったら素晴らしい日々が待っているに違いない」なんて寝言を言い続ける人間がいるだろうから、そういう人間に対して、私だけが知っている悟りについての究極の秘密を教えてあげましょう。

その秘密とは、悟りを開いた聖者は皆、粒あんを神仏の食物とみなし、こしあんは外道中の外道とみなすことです。

あのブッダが涅槃に入る際「自灯明法灯明粒あん灯明」と言ってるし、あのイエスも過越祭のとき「このような物を持ってここから出ていけ。私の父の家をこしあんの家とするな」と鞭を振るって怒ったと福音書にありますしな。

何か話が脱線して悟りの方にいってしまったけど、気付きも悟りもあんま変わらんで。

まとめると、

・気付く方法なんてない。ただ自分の思考を観察しよう。
・特に、自分がどれだけ思考の檻に囚われて「思考=私だ!」とやっているかに気付こう。まぁ「気付こう」といっても気付けないけど。
・「本当の自分」なんて分からないままでいい。
・悟りとは粒あんである。

ということで、今回はここまで。次回は「気付くとどうなるのか?」について。