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15:苦しみから解放される方法もう一つの基本「気付き」前編 気付きとは何か?

前回と前々回で基本の一つ「観察」について話したので、今回はもう一つの基本である「気付き」に書いてまいります。

実を言うと、苦しみから解放される方法において実際におこなうことは「観察」と「気付き」の2つだけです。嘘じゃなくてホンマに。

なので、苦しみから解放されるためには、インチキセミナーに参加したり変なグッズを購入する必要など全くないどころか、滝に打たれたり千日回峰行なんてのもやらなくていいのであります。

やったじゃないですか~!楽チンチンで。

余計な話ですがこの際だからぶっちゃけてしまうと、滝行や千日回峰行なんていうのものは、オウムの「水中クンバカ」と本質的に何も変わらない、ただの自慰行為に過ぎません。

あんなゴータマ・シッダールタの教えとは程遠い、小乗的な修行よりも、
例えば、毎日家族のためにご飯を作ったり掃除をすることの方がよっぽど「仏の修行」なのであります。

ご立派な坊さん達は、「いや~私共の修行なんかよりも、家族のために家事や掃除をしている世のお母さん方のが上です」とか、「私共がやってることなんて皆さんと大して変わりませんよ」とか、なぜ本当のことを言わないんだい?(こんなこと書いてたら比叡山から僧兵がやってきちゃう。怖い~><)

でも真面目な話、「滝行や千日回峰行しないと悟れません」「(坊主界のエリートである)東大のイン哲を卒業しないと悟れません」だと、仏教は一神教もビックリの排他的宗教になるんだけど、その辺はどうなんですかね…?

「気付き」とは何か?

そんな喧嘩を売るような事実はさておき、「気付き」について。

ここでいう「気付き」というのは何かというと、仕組み的には、皆さんがやっている「いつものやつ」と同じです。

「いつものやつ」というのは、
「あ、醤油買わなきゃいけないんだった」
「あ、靴紐がほどけてる」
「もしかしてこれって…レスリングじゃない…!?」
「ちょっと待って!いなりが入ってないやん」
といった、そういう「気付き」です。

この辺は皆さんも分かるでしょう?

新しい地は気付きから

では、「気付き」と苦しみから解放されることと、一体何の関係があるんだという話ですが、

人類の殆どが
「『思考=火』だとすると、火だるま状態」
「思考の檻に囚われている状態」
「思考、特にエゴが問題を探し続けるから人生が苦しみの連続となっている状態」
だというのは、ここまで読んだ人は多少なりともお分かりでしょう。

なので、「醤油を買うこと」「靴紐がほどけてること」「レスリングじゃないこと」「いなりが入っていないこと」同様に、

「自分が火だるまであること」「自分が思考の檻に囚われれていること」「問題を探し続けるというエゴの所業」に気付きましょう、ということなのです。

気付くことで、いつもやっている気付きと同様、新しい展開になる、思考に囚われた世界から新しい地が開ける、ということでございます。

違うとすれば、醤油を買い忘れてもいずれ気付くことになりますが、自分が火だるまであること、思考の檻に囚われていること、エゴの所業等については、気付かなければ死ぬまでずっと気付かないということでしょうか。

※レスリングじゃないことに気付かなかったり、いなりが入ってないことに気付かないままだと、どうなるのかは知らん!後に書くかもしれないけど、知らないものは知らない、分からないものは分からないまま放っておけばよろしい。

以上、短いけど一気に書くと長くなるし、読者の方々の理解が追いつかないかもしれないので今回はここまで。

次回は「気付くためにはどうすればいいのか」という実践方法?について。