ダイアログインタビュー ~市井の人~ 内田雅人さん「私が動く理由」1
内田雅人さんは、南相馬で子育てをしながら、「この街をどうにかしよう」と積極的に活動されている「地域のリーダー」だ。そうした活動は震災前から継続されていて、消防団の部長さんや息子さんの通う小学校のPTAの役員さんなどをなさっていたそうだ。
私は、個人ボランティアとして南相馬に入ったのだが、内田さんは、そうしたボランティアの受け入れのための、滞在型のスペース「ボランティアベース」をつくっている。私もその場所を利用させてもらっていた一人だ。消防団の屯所を使ったとても居心地のいい場所で、ボランティアと地域の方との交流スペースともなっていた。
どのような想いからそうした活動をされているんだろうか。色々とお聞きしようとこのインタビューをお願いしたところ、快く了承してくださった。
とにかく面倒見の良い、気持ちいい心持の方なのだ。
――今日はお時間をいただき、有難うございました。まずは形式的な所から。お名前をお聞かせください。
内田雅人さん(以下内田) 内田雅人(うちだまさと)です。「みやびなひと」と書きます。
――今おいくつですか?
内田 44歳です。戸田さんと同じ(内田さんは私と同学年である)。早生まれだけどね。
――仕事は何をされてますか?お仕事の内容は?
内田 会社名を言ってもいいんだけど…「東北エコ・テクノ株式会社」という会社で、東北電力の原町火力発電所に品物を製造して販売してます。
――そうだったんですか。
内田 本職はね。石灰石を微粉砕して炭酸カルシウムをこしらえて、それを発電所に納めてる製造メーカーです。石炭の公害成分である硫黄分を、その炭酸カルシウムで吸収除去します。
――石炭火力には欠かせないですね。
内田 そう!欠かせないんですよ~!「石灰-石膏法」という排煙脱硫方式なんですけど、これが石炭火力の脱硫方式の中では一番効率が良くて、安価な方式です。
――排煙を綺麗にする触媒みたいなものですね。
内田 そうそう。排気する前に「排煙脱硫装置」内で、水と炭酸カルシウムを混ぜた石灰石スラリーをノズルで噴射すると、排煙中の硫黄分を除去できる…と。そうすると、副産物で「石膏」が出来るんですよ。その石膏も引き取って、関連会社のセメント工場に有効資源として納めるんです。セメント工場では、セメントの製造過程の一番最後で、仕上げ材として石膏を添加するんですよ。
――そういう事って全然知らないから、聞いてみると面白いな~。
内田 だから会社の名前の由来も「テクノロジー」「エコロジー」…あ、逆だ(笑)「エコロジー」「テクノロジー」なんです。環境に良い会社なんですヨ(笑)。
――原町火発もそうですけど、最近の火力発電所って石炭火力が多いみたいですよね。
内田 ん~多いというか…変な話だけど、(福島第一)原発事故があったからね。本当は相馬共同火力(新地火力発電所)も原町火力ももう20年経つんです。火力発電の設備を増設する用地はあるんだけど、そのスペースを使って構内にメガソーラーを作ったり、バイオマス発電をやったり、そのバイオマスのチップに県内産のものを混ぜてみたり…色んな事をしてるんだよ。
―― 一時期バイオマスの燃料ペレットを、この地域産の木材を使って行こうなんて動きもありましたよね。
内田 よその地域からのトラックはよく見かけるなぁ。
――ん~やっぱまだこの地域の木材は大々的には燃やせないんですかねぇ
内田 そういうわけでも無いみたいだけど、その辺りの事情はよくわからないな(苦笑)。
――分かりました…内田さんって、生まれも育ちも南相馬の鹿島区なんですか?
内田 そうです。
――小さいころのこの辺って、どんな街だったんですか?
内田 小さいころ?ん~どうなんだろうねぇ…のどかな田舎町だったんじゃないかな。あんまり今も幼いころの街と変わっていないというか…「変わっていない」と言い切ると怒られちゃうかもしれないけどねぇ。例えば、区画整理なんかをしてるんで、街並みだとかは変わってるけどね間違いなく。道路事情とかも。それ以外で何が変わったんだろうねぇ。あんまり代わり映えしないような(笑)。
――鹿島の街を見てると「あぁ昔からこういう街だったんだろうな」という感じも見て取れるんだけども、街並みは変わった部分もあるんですね。
内田 動線的には変わってないね。旧道(鹿島区の中心を南北に走る旧国道)はあのままだったし。鹿島の街の中で変わったのは、今の社協(社会福祉協議会。鹿島区の中心街の西北部にある)のあるあたりだね。区役所の西側の広い道路だとか。でもあの道も広くなったのは、俺が中学生のころだったかなぁ。あの辺りは区画整理して、色んな建物が建ったね。この間はスーパーが建ったし。今度県の復興公営住宅も建つでしょ。
――区役所の西側のあたりや、真野川(鹿島区を北西から南東に貫く形で流れている川)の北側あたりは、新しい住宅地ですね。
内田 そこや西町(区役所の西側。社会福祉協議会のある周辺)あたりは、震災前に区画整理して分譲したんだよね。あそこと、鹿島中学校の西側の「三里地区」(社会福祉協議会のある地域よりさらに西側)は分譲したのよ。でも、分譲したのはいいけど、当初あまり売れなくてね…だから「お墓つけて売ります」とか、当時そんな事もやってたの(笑)。それでもなかなか売れなかったのに、今となってはいい土地は引く手あまただからね。特に街の西側の山手のほうは売れてるんじゃない。鹿島駅から真っ直ぐ西に行ったあの辺りとか。まだ仮設住宅のある辺りだね(鹿島区では、市街地の西側に数多くの仮設住宅が建っている)。あの辺りは、隅々まで家が建ってるよね。
――塚合仮設(区の西側にある大規模な仮設住宅団地)のさらに西側にも、新築の家がどんどん建ってますね。変化はしてるんだなぁ。
内田 ん~震災で家の建ち方なんかは、そのペースや場所なんかは変わったんだろうけど… 俺からすると、そういうところはこの街の変わったと感じる部分だなぁ。でも、他に目覚ましく変わったところといえば… 何かなぁ~… よく分かんないな(笑)。
――何か、小さかったころの内田さんって、悪ガキだったんだろうなという感じがしますが(笑)。
内田 そうでもないよ(笑)。小学校のころまでは、一生懸命野球をやってました。小中学校とね。
――小中学校はどこの学校まで通ってたんですか?
内田 小学校は真野小学校。ついこの前閉校になっちゃったけど(真野小学校は、南相馬市の学校で唯一津波被害を受けた学校。2014年3月に閉校になっている)。中学校は鹿島中学校。俺らが第4期の生徒だったかな。町の中学校が統合になってね。鹿島中の1校になったの。それより前は鹿島中と上真野中の2校あったんです。上真野中のあった場所は、今の角川原仮設(鹿島区の市街地から西に6キロほどのところにある仮設住宅団地)のあるところなんです。鹿島中も今の場所じゃなくて、もともとは千倉(鹿島区の市街地から東に1キロほどのところ)にあって、二つの学校を統合するんで、その両地区の間辺りに新しい校舎を建てたんです(これが現在の鹿島中学校)。
――移転してあの場所になったんですか。じゃないと…上真野あたりから千倉まで通うのはかなり遠いよなぁ。
内田 遠いよ~。上真野から千倉までじゃ、6~7キロあるだろうからね。
―― 一言で鹿島区っつっても、結構広いからなぁ。
内田 広いよ~!上栃窪(鹿島区の西端にある行政区。真野ダムというダムがある)から烏崎(東端の行政区。海岸沿いにある)までで言ったら、結構広いよ~。うちから中学まで、確か6キロあってね。学区の端から端までだと、20キロくらいになっちゃう。でも俺も小さい時、自転車で端から端まで行ってたけどね。他に交通の手段もないし(笑)。
――交通は確かに大変だったんだろうな~。今も昔も、その広い町に電車が一本通ってるだけですしね。
内田 だねぇ。自分らが若いころの移動手段は、もっぱら電車だったね。当時原町(現在の原町区)に映画館があったから…2つあったんだよ映画館が。「朝日座」と「原町シネマ」っていう。朝日座は「朝日座を楽しむ会」ってのがあるから有名だけど、「原町シネマ」ってのもあったんだよ。俺が高校生のころはまだやってたなぁ。休みの日は仲間と映画見に来たりしててね。
――そうなんですか~!
内田 原町の駅前のセブンイレブンの交差点のところには、ダイエー系の大型店(原町ダイエー)があってね。それと、今は復興公営住宅や大町マルシェ(最近新しく出来たスーパーマーケット)が建ってるあの場所には、ニチイ系のお店があったな。
――原ノ町駅前って、でっかいお店がいっぱいあったんですね。
内田 そうだね。街の中にそんなお店があったんだよね。もともとこの辺りは車社会ではあったんだけど、最近はそうしたお店はますます郊外型になったよね。ジャスモール(原町区にある、イオンを中心としたショッピングモール)もそうだし。
――当時「遊ぶ」と言ったら原町まで出てきていたんですか?
内田 そうだね。俺んちって、鹿島区の中でも原町寄りのところにあるし。高校も原高(原町高校)だしね。学校まで自転車で通ってたんだよ。家から鹿島駅に来るまでに結構原町の市街地に入れたからね。
――結構距離ありますよね?
内田 10キロは無いんじゃないかな。そんなに遠かった覚えもないしね。
■ 内田さんのお話からは、当時の鹿島や原町の様子や、鹿島と原町の関係性のようのものが見えてくるような気がした。原町は当時から「街」で、この地域における「遊び」「買い物」といった機能を担っていた。一方鹿島は、地域のコミュニティを保ちつつ、緩やかな変化の中で人々が暮らしていたのだ。内田さんの幼少時代や学生時代は、それほど昔の話では無い。ほんの30年ほど前の話だ。しかし、その30年の間でも、鹿島と原町の街の歩みには違いがあった。新たな住宅地の開発や、学校の統廃合といった、人口構成の変化に合わせて少しずつ少しずつ街を変化させた鹿島に対し、商業の街として栄えた原町の、人口変動と商業スタイルの変化に伴う栄枯盛衰の様子が感じられる。内田さんのお話の奥底には、そうした時代の流れが垣間見えた。
その時代ごとの風景を、懐かしむように思い出しながら話す内田さんの様子がとても印象的だ
~続~
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