【雑記「もとまち朝市」を開いて感じたこと】
8月20日、南相馬市原町区本町の「三嶋神社」で、「もとまち朝市」を開催した。いつもなら9時のスタート時間と共に、ご近所からたくさんのお客さんが来てくれるのだが、夏の甲子園大会の準決勝「聖光学院ys仙台育英」戦が行われる時間と開催時間が被ってしまったこともあり(この2校の活躍は喜ばしいことだけど)、客足はいまいち。
でも、いつも通りゆるゆると、心地良い場を開くことは出来たんじゃ無いかな。
「もとまち朝市」って?
楽しい「日常」を取り戻す
「もとまち朝市」を開催している原町区本町とその周辺は、住民の高齢化率が高く(35%ほどが高齢者)、お年寄りが一人で住んでいる世帯も30世帯ほど。本町の隣の大町に至っては、高齢者の割合は50%だ。
住民の皆さんからは、買物が心配だという声も聴かれる。カートを押しながら買物に出かけるには、500mの距離であっても遠くに感じられるのだという。
東日本大震災から11年が経ち、南相馬市は一見すると、普通に生活出来る街になった。だが、閉まったままの商店も多く、街なかであっても人通りは少ない。そんな中、引きこもり傾向にある高齢者もずいぶんと増えてしまった。
そういった方々に、近いところで買物をしてもらおうということで、もとまち朝市は始まった。引きこもってしまっては完全に切れてしまう地域コミュニティとのつながりを、朝市の場で保とうという狙いもある。
なんといっても、朝市での買物は楽しいのだ。
「今日は○○が美味しいよ」
「この野菜は○○にして食うんだよ」
「ほれ!こいつおまけすっから持っていきな」
そう、買物とは本来「楽しいモノ」なのだ。
スーパーやコンビニでの買物はとても便利だ。何でも揃うし、人と関わらずに買物を済ませることが出来るので、とにかく便利に買物を済ませることが出来る。しかし、この地域で必要なのは、便利さより
「声をかけてくれる人」
「声をかけることが出来る人」
がいることなのだ。
孤独を感じない環境を作ることなのだ。
「混ざる」場所
もとまち朝市は「混ざる場所」としての機能も持たせている。
若者と高齢者、地元の人と移住者が、同じ場所で買物をする。
一緒に○○をしましょうと呼びかけるでも無く、ただ単に同じ空間で「混ざる」。
無理にくっつけようとするのでは無く、色々な年代やカテゴリーの人が、空間を共にする。
空間を共にすることで、何か感じるものがあるはず。
まずはこれだけで良いのだと思う。
南相馬市が「過疎の町」になってしまったのは、震災だけが原因では無い。震災以前に大きな問題があったわけではないだろうが、地方特有の閉塞感のようなものがあったのだろう。その閉塞感が「日常の楽しさ」を忘れさせ、街の魅力を覆い隠してしまったのではないかと思うのだ。
私が思うにこの街には、大変魅力的な「人とのつながり」があるのだ。人同士の距離感が程良い。干渉し過ぎず、なおかつ放っておき過ぎない。とても安心感があるのだ。
もとまち朝市は、そんな「日常の楽しさ」「地域の魅力」の再発掘・再認識をしてもらうために、行っているという側面もある。
その再発見・再認識は単純に「混ぜる」ことで、叶うことなのでは無いだろうか。
色々な属性の人を「混ぜる」ことで、相手を認識してもらう・・・・・・まずはここから始める。そのための場が「もとまち朝市」なのだ。
朝市を開いてみて
生じ始めた「変化」
もとまち朝市は、2021年11月にスタートした。11月・12月・2022年6月・2022年8月と、これまでに4回開催している。
今回は冒頭にも書いたとおり、来場者の数はやや少なめだったのだが、出店者さんによると、売り上げはむしろ増えている。リピーターの来場者が多く、客単価が上がっていると思われる。時期的に夏野菜が豊富な時期なので、単純に様々な品を購入したということもあるだろうが、会場の雰囲気や売主との会話を楽しんだ分だけ、購入量が増えたとも考えられる。
会場内に、とても緩やかな空気が流れている。
来場者も、その空気を楽しんでいるようだ。
まず気づいたのは、来場するお客さんの表情に変化が出ていることだ。始めて朝市を開いた時は、「一体何が始まったんだ?」という、ちょっと硬い表情で来場し、買物だけ済ませたら帰ってしまう方が多かったのが、今回は皆さんリラックスした表情で来場し、売り手の農家さんとの会話を楽しみながら、「朝市の場」そのものを楽しんでいる。
これはとても良い状態だ!
もとまち朝市のお知らせは、SNSによる告知以外と近隣の方にチラシを配るだけなので、来場者も近隣に住む方が殆ど。来場される皆さんの表情を見ていると、
「だんだん『もとまち朝市』も、地域の皆さんに浸透してきたかな」
と思え、嬉しくなるのだ。
やっぱり「混ざる場所」
ちなみに、小さな子連れの方が来場されても、全然問題ない。そもそも神社の参道だから車通りもないし、親御さんが買物に夢中になって、子どもがチョロチョロし出しても、会場にいる誰かが必ず見守っている。高齢の方はいつも、子どもたちをニコニコしながら見守っているし、主催者は何とか子どもに構ってもらおうと、ちょっかいを出すので(笑)。実はこれ、「混ざる機会がなくなった」現代においては、絶滅寸前の環境なのではないだろうか。もともと子どもの育ちは、こうして地域全体で見守るものだった。そこに子育ての安心感が生まれていたのではないのかな。
もとまち朝市は、「失われしもの」を再発見する場でもあるのだ。
これを続けていくことで、新たに見いだせるものはたくさんあると思う。
利益0円???
もとまち朝市を行なう事で、主催者に入ってくる金銭的収入は、今のところ1円もない。それどころか広告費などがかかるので、収支は赤字である(いずれは利益が上がるようにしたいとは思うが、今はまだそのときでは無いと考えている)。
でもそれはそれ。主催者である私はそれで良いと思うのだ。もとまち朝市を開くことで、喜んでくれる人がたくさんいる。「買物に来られなくても応援してるよ!」という方がたくさんいる。会場の設営やチラシ配りなど、積極的に手伝ってくれる人がたくさんいる。いきなりお店に行って「チラシを置かせて下さい」とお願いしても、「おう、良いよ!」と気持ちよく応じてくれる商店がたくさんある。もとまち朝市は
「私一人で開いている場ではないな」
と感じることが出来るのだ。こうした「人との関係性」こそが私にとって、お金で買えない大きな宝なのだ。この「人との関係性」を見いだすことが出来るということは、私のみならず、地域の活性化には最も大事なことなのでは無いかと思う。
地域を盛り上げるには
近頃は日本中どの地方も「地方創生」「地域の活性化」を謳っている。観光資源を材料に人を呼び込んだり、都市からのアクセスの良さを材料に、テレワークや二拠点居住を薦めたり、お土産になるような名物を作ろうとしたり、そのやり方は様々だ。多様なやり方を行うことは、とても良いと思う。
だけど私はこう思うのだ。
「地域の元気は、その地域から生まれる」
「その地域の魅力を再発見、再認識することから始まる」
そして
「地域に住む人が楽しく、甲斐を感じて暮らしていない街は、移住者なんて来ないし都市からの資本もやってこない」
だろうという考えに思い至った。
もともとそこに住んでいる人が元気な街に、地域活性化の種はある。
けれど地方に住む多くの人は、その地域が持っている魅力に気づいていない。当然だ。その地域にとって、それは当たり前のことなのだから。
そうした地域の魅力の多くは、都会では失われた、大変貴重なものなのだ。
まず地域に住み人がその魅力を再認識し、魅力の中で楽しく暮らす姿を見せることが、地域を盛り上げるカギだと思う。
私が感じているこの街の魅力は、先にも書いたとおり
「人」
であり、
「人とのつながり」
だ。これは観光化や名物として商品化出来るものではない。
それを地域の方に再発見してもらうには、再発見出来る場所を作るのが一番。
「もとまち朝市」が、そんな場に育てていこうと、私は考えている。
まとめ
「もとまち朝市」は、地域の農家さんが自分で育てた野菜を軽トラの荷台に並べ、それを地域の方が買っていくというものだ。そこには本来あったはずの「買物の楽しさ」「人と交わる楽しさ」があり、「もともと人はこうして暮らしてきたよね」という、人が本来持ち合わせていた心地良いリズムがある。このリズムを取り戻すには、特別な演出は必要ない。昔から人は「混ざり」ながら生活をし、そこから生じるつながりに助けられながら暮らしてきた。それは個人化が進んだ都会では失われつつあるものだが、この街には存在している。
それを思い出してもらうのが「もとまち朝市」という場なのだ。
この朝市を続けても、きっと大儲けすることは出来ない。でも、お金に換えがたい宝物を、主催者も出店者も買い物客も得ることが出来ているなら、このまま続けていくことに大きな意味があると思う。
これからも「もとまち朝市」は、大きな看板を掲げることなく、小さくゆるゆると開催していくことになるだろう。
私はそれが一番良いと思っている。
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