ダイアログインタビュー ~市井の人~ 梅田守さん「この街で暮らす『芯』とは」2

◎この街はこんな街

――梅田さんの幼い頃のこの街(鹿島区)って、どんな町(当時は鹿島町)だったんですか?

梅田 スポーツが盛んでしたね。町を挙げた行政区対抗のバレーボール大会なんかが行われててね。行政区で一般の男子、女子、壮年の男子、女子の4チームが出場してて。当時34ほどの行政区があったんだけど、それぞれの行政区からチームが出場し、1日で優勝チームを決めちゃうみたいな…そんな事をやってましたね。町を挙げたイベントだったなぁ。

――それはすごいですね!その規模でやってるイベントって、あまりないですよね。

梅田 当時は前回の東京オリンピックの「東洋の魔女」の影響とかも強かったんじゃないかな。

――バレーボールは流行りましたよね。「アタック№1」ですとか(笑)。

梅田 そうそう(笑)。そういう大会が、つい10年位前まであったのかな。

――震災前まではあったんですか?

梅田 その頃になると、参加チームが集まらなくなったりしてたね。バレーボール以外にも、小学生のドッジボール大会や、中学生のソフトボール大会などもあって、とってもスポーツが盛んな町だったな。

■ 当時の鹿島町(今の鹿島区)の様子を、ゆっくりと懐かしむように、梅田さんは語ってくれた。


――それに「火伏せ」も鹿島でしたよね。

梅田 鹿島の御子神社のお祭りなんだけど、「火を伏せる」という事で、無病息災と火除けを願うお祭りです。1月の成人の日と連休となる土曜日に開催されます。

――これは今もやってますね?

梅田 法被にさらし、半股引姿で柄杓を持って、各家庭の軒先に用意してある盥の水を柄杓ですくって、「火伏せ!」という掛け声とともに柄杓の水を建物にかけて廻るという……神事になるのかな。

――独特ですね。

梅田 真冬の寒い時期にね、法被一枚で練り歩くわけですから、寒いわ、ビショビショになるわ、やってるそばから凍るわで(笑)。

――やってるそばから凍るわけですか(笑)! 盛り上がるんでしょうね!

梅田 やってるのは鹿島の若い世代の人達だし、私自身も参加する側でやっていた時期もありました。

■ 火伏せ以外にも、地域のお神楽なども伝承されているこの地域の、独自性の一端を垣間見れるお話だ。


――他に幼い頃の思い出ってありますか?

梅田 スポーツの大会などで良い成績をとるとヒーローになれたし、子どものころは凧揚げ大会なんてのもあって、5年生の時だったかな…大人3人分くらいの、3メートルくらいの凧を作って出場した事もあって、みんなの度肝を抜いたっけな(笑)。凧糸を三重くらいに重ねるんだけど、それでは細くて切れてしまって、大人が用意したロープを借りて揚げたりして(笑)。

イベントで好成績を残すとヒーロー…なるほど(笑)。

◎外から見た南相馬

――南相馬を6年間離れていたという事ですけれども、その間って、よその地域と比べてこの地域ってどう見えたんですか?

梅田 まず、ホンダの学校時代の2年間は、全国から学生が集まってきていて、いろいろな違いに、ある意味ショックを受けたり、地元の方が優れているなと思える部分もあったり、勉強になりましたね。

――(ホンダの学校のあった)埼玉県って、いろいろな地域から人が集まってできた新しい街で、地域性はあまりなかったりしますよね。寄せ集め的な感じで。そういう部分って感じる事はありましたか?

梅田 確かに、古くからそこに住んでる人は少なかったね。住んでるところは池袋から30分くらいの場所にあったし、都心への通勤圏内だったね。

――「地元の方が優れてるな」と思った部分もあったとの事ですが、たとえばどんなところですか?

梅田 「人とのつながり、かかわり」といったところかなぁ。子どもの時分なんか、隣の家に行って朝ごはんをごちそうになったりとか(笑)。当時は炊飯器なんか無かった時代だから、冷たいご飯を蒸かし缶で蒸かして食べたりしたんだけど、冷たいご飯を隣近所で日常的に貸し借りしたりといったつながりがあったり。そういった付き合いは、埼玉では見られなかったなぁ。もっとも、今は鹿島でもそういうやり取りは無いけど。

――確かに埼玉ではそういう付き合いは聞かないですね。ここでは、そういう付き合いの名残は残ってる気がしますよ。

梅田 そうだね。根っこの部分では、人のつながりは強い地域なんだと思いますヨ。

――根っこでつながってる……それって、この地域独特のものだと思いますか?

梅田 全国的には、そんな地域もたくさんあると思うんだけど、ここはそういう良いつながりが残ってる地域の一つだと思いますよ。

――独特のものは感じますよね。仙台はどうだったんですか?

梅田 えーっとね、仙台は逆に「温かさ」を感じたね。自分にとっては知らない土地だったわけだけど、会社の先輩方は、とても親身になってくれたし、育ててくれたと思いますね。人を気遣う温かさというか。

――ドライな感じはなかったんですね?

梅田 ドライさは職場では感じなかったな。人を気遣う温かさは、地元よりも優れていた感じがしたなぁ。

――それは仙台という地域性なんですかね。

梅田 う~ん地域性なのかなぁ。自分はアパートに住んでたから、近所づきあいがあったわけじゃないんだけど、職場ではそういうものを感じたな。

――地元を離れてる間って、地元に戻りたいなといった想いってあったんですか?

梅田 正直な話、仙台に永住したいと思った(笑)。人の温かさは感じていたし、東北地方の経済の中心都市だし、遊びに行くにも、夏は海、冬はスキー、夜は国分町と(笑)便利だし。仕事もプライベートも事欠くことが無かったしね。二三~二四歳頃の若気の至りだったかな(笑)。

――程よく都会で程よく田舎だったんですかね。今のこの街と似た部分もあり、より都会的な部分もありで。

梅田 東京みたいな大都市じゃなくて、地方都市の良さってのがあったんだね当時の仙台には。

■ 就職したての梅田さんが感じていた「温かさ」は、もしかしたら、私が今の南相馬で感じている「温かさ」に近いものなのかもしれない。街の規模からみれば、当時の仙台と比べても、今の南相馬は小規模ではある。都会的な快適さも、今の南相馬は当時の仙台に、恐らく追いついてはいまい。だけど、都市的均一化の波は、今では確実に南相馬にも及んでいる。ここ南相馬も「程良く都会で程良く田舎」になってきているのだと思う。そんな中で暮らしている人々の中に、当時の梅田さんが感じたであろう「温かさ」を、私は感じずにはいられないのだ。
~続~

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