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僕の文章は常に僕が未熟であるという一点を避けて綴られている

日記(2022.4.11)

欲しいものが一つもないのにつまらなそうな顔をしている自分に気がついたとき、本当はなにか欲しいものがあるんじゃないか?と訪ねてみる。
 応答はない。なにもいらないよ。と言い切る。だけどその目って君の、すっごく生きてるって感じのときとぜんぜん違うじゃないか。慣れているはずなのに、鏡に写った自分と会話するのは未だ難しい。こいついみわかんない。目をそらすのも終えるのも眼球の位置をずらすだけでできる。誰も引き止めやしない。何かが定まらないまま、この世のどこにも自分がいないという設定に今夜すべてが書き換わっても、それはそれでよかったんじゃないか、と考えながら春の道をさまよっている。あふれんばかりに咲く花はなんの象徴でもなくて、ただ何かを祝福するようなムードのほうが先に訪れる、花を浴びている人々があとからだんだん祝福される、そういう順番で春が来る。私は舗装された道からほんの少し外れて、土か草かの中間地点に腰を下ろす。神かなにかに委ねる勇気はとっくの昔になくしてしまった。欲しいものがわからないのなら、ほんとうに恐れていることは何? 散り散りになる川面の光が斜めの角度から聞いてくる。生意気だ、光はいつもほんとうのことしか言わなくて、おまえらなんかいなければ、ちょうどよいなにかにでも騙されて私はもう少し幸せだった。私は恵まれていると思う。これから先なにひとつ幸せなことが起こらなくても、総合値は十分だろう。どうやっても死ななそうだな。すべて諦めた顔をするのは、悲しすぎて死なないためだろ。その代わりに泣くことも、何かをねだることもできなくなって、あー私ってしあわせだなって声に出したら、声に出してしまえばその通りになって、その声以外のものはなかったことになるのだから、人生ってなんてイージーなんだ。世界中に泣いている人がいる。はやく助けに行かなくちゃ。だけどどうしてどことなく、身体が重くて、起き上がれなくて眠り、外へ出て歩き回って座り、さぞ考え事が捗るかと思いきや、何も考えられないでいる。今泣いている人がいる。今助けに行かなくちゃ。そうだ、私のこと好きっていう男の子全員とセックスすればよかったなあ。何お高くとまっているんだろう。誰かが助かればそれでいいじゃん。うろうろさまよっているうちに、誰の役にも立てなくなるよ、それならさっさと切って加工して臭みをとって殺菌して最後のひとかけらまで売ってしまって、どこからもいなくなれたらなんて幸せなんだろう。それさえも贅沢で、実際の私は、きれいな売り物にもなれず、中途半端にがんばっている雰囲気だけを出している、中途半端な不良品のまま、頭だけ冴え渡り、そのことの証明もどこにも出来ずに、最悪な気分で転がっている。私が私を守ったことを、いつまでも後悔するだろう。人より強く生まれたらそのぶんエネルギーを分けなければいけないんだ、みんなでちょっとずつ分けたら良いんだ。だけど、それならどうして、そのためだけに生きられなかっただろう。やっぱりそれでもよく考えてみる。何度でも巻き戻る思考のらせんで、今日はそれでももう一歩だけ、と。なにかの呼び声が聞こえる。生まれる前から聞こえている。だれもそれがあることを信じない。見たことも聞いたこともないという。あるいは、全く別のなにかをそれと呼ぶ。ねえ、でも、この声を聞くことって、眼の前の人の涙を止めることよりも大切なのかな。ってとあるレイヤーのわたしは言う。すっごくそう思う。すっごくそう思う。でももう一人の私、たった一度だけ付き合って。何かと何かを比べるのではなくて、私が生まれてきた意味を、私がほんとうに嗅ぎ取るとしたら、たぶんなにかひとつゴールがあってそのために理由を組み立てるような、そういうことではなくて、すべてがそもそもひとつになっているような、理由をひとつも持たないような、そんななにかのことだろう。それは、どこにもないと言われ続けるが、どこにもないとは言い切れない。それは、そんなものなんの役にも立たないと言われ続けるが、そうでないことを証明できない。それは、触れているときだけすべてがわかって、指先が離れるとあったことさえわからなくなるような、どうあがいても信じ抜くことの困難なものだろう。それは、ずっと存在を知っているのに、どうしていつも、ひとりになると、聞こえなくなってしまうんだろう……。ほんとうに正しいことってなんだろう。少なくとも、完結する物語の中にはない。正しさに完成はないのだから。わたしの人生が物語なら、どうやったって続いていくのかな。それでも、ここより先どこにも行けないのだとしたら、私は今からこれまで愛したすべてのものに一生残る愛を綴って、綴り終えたらその言葉を汚さぬうちに居なくなろう。生きているうちは、なにかを汚してしまうから。みんなが愛してくれた箇所だけきれいに切り抜いてリボンを掛けて、のこりは見えないようちゃんと捨てるさ。こんな感傷や自己憐憫すらダサいと知ってしまうから、うるさい、いいから、生きよう、と心より早く声の方で先に言う。わたしは、めんどくさいなあ、傷つきたくない、傷つくならどこにもいきたくない、もう私はつかれたよ、と、身勝手な友達みたいに返す。正しさよ、おまえにできるのは保留だけだろ、保留以外は全部誰かにとっては正しくて誰かにとっては間違いなんだよ。花吹雪が二子玉川に散り続き、風で重力が希釈されている。きれいだなと思う私とこれきれいか?と思う私と、重力くらい変えようのないなにかと、重力さえも数多の条件が重なって偶然ありえていること、それさえも凌駕するものがこの世にあるとしたらそれはどんなものなんだろう、と考える私がいる。知っていることを知らないふりすることが得意で、見えたものを見えなかったと言うことはどうしてもできなくて、たぶんいつかなにもかも滅ぼし、なにひとつこの手には残らない。それでも私以外の誰かが幸せならそれでいいと思う。というのもすべてすべて私の環世界の物語で、わたしがどこにもないと言い切れば、どこにもないということになる。そうした場合、認識されるという最後の手綱を手放された物語は、宇宙のほんとうに誰も見ることも聞くことも触ることもできない座標に永久に捨て去られるのだろう。あそこに私や君が初めて流した種類の涙があるとして、その一粒や二粒が、たとえ世界のすべての重さと釣り合うのだとしても。


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