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#日刊よくできました 28

 ペカンナッツのタルト

もはや毎日更新ではないので日刊というタイトルは詐欺になってしまっているけれども改めない。今日はスケジュール的に日記を書く時間は取れないな、という日は無理をしないで寝るようにしている。昨日は朝から撮影だった。この一日だけごまかせるようにほとんど黒に見えるくらいのブルーグレーに染めた髪をおそるおそるプロデューサーに見せたら何もつっこまれなかったので、幸先のいいスタートとなった。すっかり仲良しになったヘアメイクさんと雑談をしたり、お気に入りの柄本佑の画像を見せてもらったりしながらたのしくメイクを仕上げ撮影が始まる。パッケージ撮影のときにはなんとなくaikoを流していて、途中で気分が変わってポルノグラフィティを流していたら妙に歌詞が心に染み込んでしまって涙が出た。写真を撮られているときというのは表情やポージングに集中していて案外心がピュアになっているので、流れている音楽がずかずかと精神に入り込んできてしまう。「ヴォイス」という曲の『星を数えるよりは容易く 雲の行方を知るより困難で 僕がそれを信じれるかどうかだ 左胸の声を聞け』という歌詞に愛の話だ……と思っていたら泣いていた。すこし涙目の写真が撮れた。

 撮影は順調に進んでいたけれど、水分を多く摂る内容だったからか夕方ごろにすこし体調をくずしてしまった。自律神経が乱れているような、ぼうっとする感じになってしまって少し控室で休ませてもらう。時間も少し巻いていたので大した罪悪感もなく寝っ転がっていたけれど、なんとなく眠れなくて好きなアイドルの歌って踊っている映像を見ていたらほんとうに何故なのかぜんぜんわからないのに涙が出た。ずっと、笑顔に励まされました、とかそういう言葉をくれる人のことがよくわからなかったけれど、それひとつで誰かを照らす笑顔というものはちゃんとあるんだな、と思った。わたしは自分の笑顔が好きではない時期の方がずっと長くて、ほんとうにたくさんの人が好きだと言ってくれて、ちゃんとかわいく撮ってくれる写真家さんたちに出会って、そういうことの繰り返しでようやく悪くないと思えるようになったたちだけれど、もしも笑顔一つで、そこに思想が乗らずとも少しでも元気になってくれるひとがいるとしたらなるべく笑っていようと思った。そういう思いと同時に、思想のない笑顔になんかなんの解決にもならない、と言い切りたい自分もいる。いつも自我は少なくともふたつに分裂して、相反する意見を同時にいうから、わたしはずっと困っている。

 今朝は筋肉痛で寝汗をかきながら目覚め、フルーツグラノーラとオートミールと玄米フレークを1:1:1で混ぜて牛乳をかけたものを食べる。数日前に撮影した写真のデータが送られてきたのでそれを見ながら東京事変の「娯楽」というアルバムを聴く。ある種の理想を体現したくてロケ地を選び、スタイリングを組み、メイクをしてもらって挑んだ撮影だったけれど、難しいはずのテーマが思ったよりもずっと好きな雰囲気で写真に切り取られていてうれしかった。写真には「いい写真」と、「完璧な写真」の二種しかないのかもしれない、と最近は思う。完璧な写真に出会ったときの喜びは、好みや都合は吹き飛んでただもっとプリミティヴな感動に帰結する。自分の姿形にはさして興味がないけれど、精神が可視化される瞬間というのがあって、その瞬間に出会うために表面の凹凸に一生懸命化粧を施したり服を着せたりするのかもしれないと思った。わたしの魂はわたしのとぼけた見た目よりずっとかっこいいということを、どこかに証拠として残しておくほうが、すこしだけ生きることがましになる。

 夕方からはとても好きな女の子と待ち合わせてお茶をした。人見知りのわたしが、緊張も一瞬でほどけて安心して会話を始めることができるのは、お互いのことを好きだときっとわかっているからだと思う。ペカンナッツのタルトをふたつにわけようとして、半分に切った片方をこちらの取り皿に移動して残った方をそのまま食べてもらおうとしたら、彼女はブルーチーズのニョッキを食べ終えた後の皿にタルトを移動させた。このまま大きいお皿で食べていいよとまで言わなければいけなかったなと反省して、ごめんね、と言っていると、ニョッキもタルトも大好きだから大丈夫だよ!と返ってくる。そういう問題ではないんだけれど、あまりにもずっと腰が低いのでかわいいなと思って笑ってしまった。ポケモンに出てくるトゲピーのことが嫌いだと言っていた。無条件で愛されて守られる存在を見ると苦しくなるという気持ちにはずっと苛まれてきたから、それを感じている人間に会うとうれしくなる。私もずっとトゲピーのことは蹴り飛ばしたくなるなと思っていたよ、と言う。もう春だと思っていたのに風が強くて寒い。渋谷はずっとむかし、ただの谷底だったのだろうか。ビル風ならぬ谷風にふかれて、おしゃれだという理由だけで選んできたノースリーブにニットカーディガンのみのコーディネートを後悔する。彼女が風よけになろうと風上に立ってくれて、後悔がすぐに立ち消える。いつかこの人の役に立つ自分になりたいなと思う。散らかりっぱなしで床も見えない家に帰る。片付けの一つもできなくてもそういうことは思う。一人で粛々と爆弾をつくるような、家族の誰にもばれないように家出の計画を進めるような、そういう日々が始まる予感がしている。どこか別の世界で兄弟だったかもしれないね、とか、そういうことを思う人がたまにいて、そういう感覚があまりに大事で、完璧だと思う。この世界にはたまにちゃんと完璧がある。昨日の夜、小袋成彬の「分離派の夏」とSuchmosの「THE ANIMAL」をスピーカーで流して大声で歌っていたらいつの間にか眠っていた。思想から遠のいても一瞬でわたしたちは帰ってこられる。そういう、完璧を召喚するスイッチをもういくつも持っている。人も、音楽も、場所も、言葉も。

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