SNSで死なないで
中学生がヒッチハイクでアメリカ横断を試みて、ツイッター上でちょっとした騒ぎになっていた。ふつうに常識があればありえないほど危険な話だし、そもそも本人のツイッターやInstagramの投稿を遡るとまるで勇気と無謀を履き違えていて、どうしてこんな歪んだ認識をするに至ってしまったのか…とうろたえてしまう。
彼が正しいとか間違っているとか、それは一旦置いておいて(彼がしていることは間違っていると思うのだけれど、どれだけのリスクがあることなのか正常に判断できるだけの経験や知識が中学生にあるわけがないので、そもそも『裁かれる』以前の段階にいる存在なのだ。)インターネットの海を行くあてもなく泳いでいるとこういう人にとてもよく遭遇することに気がつく。彼や、彼に同調している若い人たちのアカウントのプロフィール欄は、どれも同じような特徴を持っていて、それはいわゆるインフルエンサー界隈やオンラインサロンを運営している人々のプロフィールの作り方と酷似している。どこに所属していて、どんなことをしていて、どんな資格を持っていて、そして将来どうしたいのか。個性をなるべく立派に見えるようにつらつらと書き連ねているのだ。(こういう書き方については、私自身も参考にしているところがある。お仕事をくれるひとがわかりやすいように、と。)さらには、『何RT以上で裸足でアメリカ横断します』といった内容のものも回ってくる。どれもフォロワーを増やしたり、注目度を高めたりするのに有効な手段だけれど、そういうツイートをしている人のパーソナルをしっかり見ようとしてみても、そこに「注目されたい」「有名になりたい」という種類以外の、その人自身の中身になるようなものがまったく伝わってこないことがとても多いな、と感じる。件の中学生についても、アメリカを横断する理由は探しても「みんなに勇気を与えたい」というん漠然としたものしか出てこない。そういう人たちを何人ぶんも、眺めていて、途方もない気持ちになった。
勇気を与えたいんじゃなくて、「何者か」になりたいだけなのだ、たぶん。
自分の身の回り以外の世界を覗こうとするとき、一定より若いひとたちや、ネット環境のある人たちからすると、もっとも大きな比重で見つめられるのがSNSの世界だろう。私自身、仕事の告知や自分自身のことを知ってもらってファンを増やそうと試みるとき、自分の力で操作できるものの中でもっとも影響力のあるものがSNSだと分かっている。頼っている。これからも頼ると思うし、SNS上でもらった言葉も大切にすると思うし、冷たい言葉にはちゃんと傷つき続けると思う。
そして、そのSNS世界には、テレビに出ている人よりももっと身近に、自分のいる場所と地続きの場所で、きらめいている人たちがいる。フォロワーが山ほどいたり、その力でお金を稼いでいたり、会社という枠組みにとらわれずに自由に仕事をしているように見える人たちがいたり、有名人同士で交流をしたりしている。質問箱をおけばたくさんの質問が来て、それに雑誌のインタビューばりに答えている姿はまるで芸能人みたいだ。
昔よりずっと、「自分でも有名になれるかもしれない」と思わせられる時代なのだ、と思う。
それはとても夢がある。インターネットには夢が転がっている。SNSで大成功した菅本裕子ちゃんや、CAMPFIREを立ち上げた家入一真さんの経歴にはアイデアやユーモアや努力や誠実さでたくさんの人たちの暮らしを明るくしてきたという確固たる眩しさを感じるし、そういう輝きからは「きっとどこからでも夢は叶えられる」という勇気をもらえる。私だって、インターネットの世界を勝ち抜いている人たちからたくさんのことを学んでいる。そもそも私のことを知ってくれているひとたちの中にも、きっかけがインターネットからだったという人もかなり多いと思う。
だけれど、そういった、夢が転がっているインターネットの世界での新しい価値観が、世界のどこかでは誰かを追い詰めているのだということにも、悲しいけれど気がつかざるをえないのだ。
夢が、有名が、身近になって、誰にでもチャンスがある時代になって、家柄やコネや経歴よりも強烈な個性やアピールポイントが強く強く光る世界になった。
一部では、自分の成功歴を看板にして人々に個性の主張のし方を教えてお金をとっている人がいる。自分が特別なのだから、君も特別になろうよ、と。それは一見夢のある話だけれど、そんなにお金をとってまで売っている「特別」、ってそんなにすごいことなのかな。と、思うことがある。
自分を「特別」だと思い込めた人からすれば、それに対する否定的な意見はどれも「特別な存在である自分に嫉妬している凡人の戯言」くらいにしか聞こえないだろう。だから、きっとこれは、渦中にいる人たちにとっては何の意味も持たない言葉だ。
だけれど、どうしてネットの世界ではそんなにみんな「特別」になりがたっているのだろう?
誰もやっていない奇抜なことをして、みんなに夢や勇気を与えたい、(件の中学生ヒッチハイクの少年を参照)という主張は、まるで私には意味不明に聞こえる。誰もがやっている平凡なことをすることは、だれかの為にはならないのだろうか?毎日のルーティーンの中には希望は見つけられない?大げさなことでしか感情を震わせる事ができないの?そういう、特別なことをした人がえらい、みたいな考え方は本当に納得ができない、と何度でも思う。
誰にでもできるかもしれないことだって、やってくれている人たちがいるから世界は回っているわけで、満員電車のサラリーマンの背中にちゃんと勇気をもらいながら生きていかなきゃ、その上に成り立っているカリソメの自由なんか何の価値も持たないと心から思う。
中学生にいらだっても仕方がないのだけれど、残念なことに、もう少し大きくなっても、もっとずっと大人になっても、特別に見えるように生きていることがえらいのだと勘違いしている人が沢山いる。
「脱社畜」なんていう言葉で商売する人たちもいる。自分が会社で働きたくなかったり、そのやり方を人に教えてお金儲けをするのは個人の勝手だけれど、会社に所属して働いている人たちを下に見るような「社畜」という表現が大嫌いだ。組織の中で懸命に生きていることの何が悪い。自由ぶって、自分の特別さを見せびらかして、そしてちゃんと働いている人たちをバカにするなんて最低だ。私はあんまり他者を否定しないように意識して生きているのだけれど、会社員のひとたちをバカにする風潮だけはずっとムカついていたのでここに書いておこうと思う。いわゆる「社畜」であることの何が悪い。何も悪くない。むしろ超偉い。そんなのは超がつくほど当たり前なことだと思う。
自分がどんなに自由でも、楽しく過ごさせてもらっていても、そこにはいつもちゃんと働いている人たちのおかげでこの世界が回っているという現実がしっかりと流れている。もっと身近なところでいえば、私のイベントに会いに来てくれたり遠くから応援してくれている人たちだって、笑顔を見せてくれている時以外のそのほかだいたいほとんどのときは働いているのだ。どこかで。それを思って私も、見えない時もせっせと働こう、と思える。個性でバズって一発逆転とか、べつにできなくてもいいから、ちゃんと生きていることだけであなたが美しいといつも知っているから、誇り高く生きていようね。
フォロワーぜんぜんいなくても、友達ぜんぜんいなくても、町中でだれもあなたのことを知らなくても、いいねが一個もつかなくても、そんなことは、どうでもいい。あなた自身の価値は、あなた自身とあなたが大切にしている人たちだけの中で柔らかく、情けたっぷりに愛情加点たっぷりに下されるべきもので、それ以外は、べつにどうと思わなくてもいい。あなた自身の評価は、人生が終わった後にやっともらうくらいで丁度いい。
ここで言っていることは綺麗事で、私だっていいねの数めちゃくちゃ気になるし、同時期に同業でデビューした子たちとフォロワー数比べて凹んだりするし、たまにいいねをたくさんつけてもらう目的でわかりやすいツイートしたりもするし、SNSが全てだと思っていないからこそSNSもうまく操れていない現実に自己嫌悪もする。明日起きたらインスタのフォロワー10万人になってないかな〜って独り言言いながら寝る夜すらある。
だけど、もしもあなたの世界がSNS中心の世界になっていて、そのなかで居場所がないと感じたり、もっと突飛なことをしなくちゃと焦ったり、注目されないと価値がないんじゃないかと思ったり、心無い言葉に傷ついたりしているのなら、そういうときには都合よく今の綺麗事を思い出してほしい。
そして、誰かの言う「特別になりなさい」「個性を売りにしなさい」「誰もやっていないことをしなさい」…そういう種類の言葉に胸の鼓動が早くなる時、どうか一度「本当にそうかな?」と胸の奥で聞き返してください。
きっとみんな、特別になりたいという気持ちを持っている。だけど、その欲望だけに踊らされたら、それ以外のあなたのたくさんのいいところがかわいそうだ。毎日会社にちゃんと行けるとか、満員電車を耐え抜いているとか、平凡なツイートをたまにしていることとか、それに別に誰からも反応がなかったこととか、冗談がうまく言えないとか、そういうの全部、SNSのネタになんかならなくていい、ただ単純にめちゃくちゃ良いところだと思う。今日のその目に映る世界は今日のあなたしか見ていない世界、それだけでなんて綺麗なんだろう。だから、そういう少しずつの、一見地味な素敵さを、重ねて世界はちゃんと回っている。知っていてほしい。
平和上等、平凡上等、どうかだれも、自分自身を破壊するほどにはこの夢のツールに支配されませんように。実体を持って、出会って、向き合って笑い合うことのできる瞬間が、いちばん強いのだから。目の前のあなたの笑顔が、分かり合えた瞬間の時が止まるような静けさが、きっといつだって、何万RTとも何万いいねとも比べ物にならない価値を持っているのだと知っている。
そして、言葉や伝達ツールはそれらの後を追っていくだけに過ぎないのだから。