ある夜
うだつのあがらない夜は原付で近所をさまよい続ける。一年前くらいに買った赤い原付、いろいろ込で20万くらいだったと思う。その時コロナの流行の影響で電車やバスより原付で移動したい人が増えていたらしく、急増した需要に品薄だったので欲しかった赤いのを見つけるのにバイク屋を3つくらいまわった。あれから真冬と雨の日以外はけっこうどこにでも、これに乗ってぶーんと移動するようになった。わたしのような弱そうな女がひとりで夜を歩くのはやっぱり危険な目に合うので、しばらく夜は明るい道を最短距離で移動するほかなかったけれど、こいつに乗っていればまあ、余程暗い道路をのろのろと移動しない限りは概ねパーソナルスペースごと移動しているようなものだと思っている。とくにヘルメット、これがいい。かぶっていると、自分以外の誰とも関係のない生き物になった気分になる。イラストやキーホルダーとかになった宇宙飛行士のなかにどんなやつがはいっているかなんて気にしたことがないのと同じように、わたしは小柄な女の子というよりは、なんだか夜中に道路を走っている赤い原付に乗った人間、という存在として周りからは認識されているはずだ。顔も見られないし、人が歩く速度よりかなり、早い。バイクは教習所でぜんぜん扱えなくて断念したけれど、このちょっと速い速度で動く頑丈な自転車みたいなものはいろんなところがわたしにとってちょうどよい。このくらい、このくらいでいいのだ。生きているとどうにもならない夜がくる。たぶんわたしはそれなりに愛のある暮らしをしているほうだと思うのだけれど、幸福でも、すてきなものをたくさん持っているとわかっていても、なんの慰めも届かないような悲しい気持ちになる夜がある。たったひとつこれさえ叶うならもういいのに、と思ってしまうような願い事が永久に叶わないのだと知るような、そういう夜が何度でも来る。生きているのだから来る。景色が粒状に視え、星が一斉にこちらに目掛けて降るような夜を知ってしまう代わりに、ほんのささいな現実や、ささやかな望みの叶わなさ、訂正しようがない神様のミスに、贅沢に傷ついたり泣いたりする。
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