#日刊よくできました 27
なんでもない日
起きしなに昨晩書いていた原稿の続きをおもむろに書き始め、満足する頃にはネイルサロンの予約時間がせまっていた。日焼け止めだけ塗っていそいで家を飛び出す。エレベーターの中でイヤホンを耳にはめ、音楽を再生して駅まで走る。これはもう時間が決められた予定がある日には当たり前のことだから、ほんとうに全くと言っていいほど走れるような靴しか履かない。今日はバーガンディー色した8ホールのドクターマーチンで、持っている靴の中でも走るのにはどちらかというと適さないほうの靴だったので、すぐに右足の甲が痛くなる。よく晴れている。どうせ走るから毎日防寒対策についてはかなりどうでもいいという態度で服を選ぶ。駅に着くころには汗だくで、家を出る時に検索した奇跡的に予約時間に間に合う電車はエスカレーターを降りるわたしの目の前で逃げるように走り去っていった。検索した時点では、乗れるだなんて絶対にありえない時間だと思った。これまで表示されているこの時間で駅まで行けた試しがなかった。当然乗れなかったけれど、ほんとうにあと少しだった。思ったよりもずっと、不可能は可能に近づいていた。わたしは本当にあと一歩であの電車に乗れたかもしれなかったのだ、と思うと、あきらかに駅までの移動時間が早まっていることを知る。それはじゅうぶんにすごいことだと思った。日々はいつか叶うかもしれない何かのための練習なのかもしれない。練習ならば、飽きたり苦しくなったりする時があって当然だ。打ち合わせ相手の方に、毎日ながい日記をつけていてすごいと思います、と言われた。他の原稿や仕事が忙しい時には書いていないから毎日ではないですよ、と訂正するものの、そんなことで褒められると思っていなかったからびっくりした。これも練習なのかもしれない。なぜか、文章というものは書くほど枯れてしまうものではなく、書くほど書くことが出てくるへんな仕組みの井戸みたいだった。上手に汲めるようになったら、もっと澄んだ水をいつか飲みほすことができるだろうか。最近はずっと、何かを書くことの息抜きに別の何かを書き、そのまた息抜きに別の何かを書く、というかんじで生きている。こう書くと期待をさせるかもしれないけれど、そのうち見せるようなものは1/4にも満たない。何かに励んでいるわけでもなく、何かのためでもない。すごくもえらくもなく、そうしているほうが気分がましだというくらいの理由であって、これもまた練習なのかもしれないと思った。息を吸って吐くということ以外の呼吸のやりかたを繰り返し練習しているにすぎないのだ。どこの場所にいたって、いつ呼吸が難しくなるかどうかは予想がつかなく、そういうことが決してないとは絶対に言い切れない世を生きていると思っている。生存本能というものかもしれない。そんなものまだあったんだな。書いていいことと書いてはいけないことの境目がなくなって、なくなって、いつか書いてはいけなかったなにかがうまれるとき、私はしんでもいいな、と思った。今年の芥川賞をとった作品は、こういう種類のものだったように思う。
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