駆逐艦涼月を救った男・國場勇 ~甥の松山達司氏によって明らかになったある歴史の真実について~ 【前編】
(以下の記述は、松山達司氏のご好意により筆者が提供を受けた手記や情報などに筆者自身の体験を重ね合わせて再構成したものである。)
「軍艦防波堤を語る会」へ
令和4(2022)年4月3日、筆者は北九州空港からタクシーを飛ばしていた。行く先は、北九州市若松地区の旧古河鉱業若松ビル。毎年この時期に開催される「軍艦防波堤を語る会」に出席するためである。
響灘に面した埋め立て地には、旧日本海軍の3隻の駆逐艦が眠っている。大正年間に活躍した柳(やなぎ)、そして太平洋戦争時の最新鋭駆逐艦・冬月(ふゆつき)と涼月(すずつき)である。冬月と涼月は、昭和20(1945)年4月の沖縄水上特攻の際、戦艦大和を護衛して出撃した9隻の艦艇のうちの2隻である。
戦後、極度の物資不足に対応するため、廃船同様の軍艦が苦肉の策として防波堤代わりに利用され、いつしか地元で「軍艦防波堤」と言い習わされてきた。現在、地上部に船体を現しているのは柳だけとなり、冬月と涼月は地中に埋まり見ることはできない。戦後しばらくの間、艦橋や砲塔を外された状態の冬月と涼月は子供達の格好の遊び場にもなっていた。今では軍艦防波堤全体が格好の釣り場として利用されている。
だが、軍艦防波堤の来歴そのものはいつしか忘れ去られ、なぜそこに軍艦の痕跡があるのか、この軍艦は何なのか、地元の方々でも知らない人が増えていった。
そんななか、若松生まれ若松育ちのある人物が独力で軍艦防波堤のことを調べ始めた。「軍艦防波堤を語る会」創設者の松尾敏史氏である。1990年代の後半から単独で調査を進め、地元の戦友会の方々とも交流を深めた。「軍艦防波堤を語る会」がスタートしたのは平成22(2010)である。
会の名称からして何やら政治的に偏った集団、あるいは軍事オタク的集まりのように誤解されかねないのだが、市民有志による純粋な意見交換会・勉強会であり、完全ニュートラル、政治的な意図は全くない。実際、「軍艦防波堤を語る会」に集うのは、地元住民の方々をはじめ、軍艦防波堤に興味を寄せる日本全国の人々、さらに最近ではネットゲーム「艦隊これくしょん(通称、艦これ)」の影響もあって若い年代の参加者も目立っている。
戦艦大和の沖縄水上特攻と涼月
前置きがたいへん長くなってしまった。
なぜ筆者が「軍艦防波堤を語る会」に参加するため若松地区に向かっているのかである。ひとつには、筆者の母方の祖父が駆逐艦涼月最後の艦長・平山敏夫だという個人的な事情がある。松尾氏とは語る会創設以前から連絡を取り合い、二人して涼月の元乗組員の方々を捜し当て直接ご自宅に押しかけてお話を伺うようなことに取り組んでいた。そんな経緯もあって、会には2年に一度のペースで参加させてもらっている。
だが今回令和4年の会に参加するのにはもっと大きな理由があった。前年の令和3年冬、松尾氏から久しぶりに連絡が入ったのがきっかけである。
「すごいことになりましたよ。澤さんから初めてメールをもらった十数年前のときのようです。」
文面から彼の興奮ぶりが伝わってきた。駆逐艦涼月の元乗組員の甥を名乗る人物から連絡があったというのだ。しかも、“あの3名”の中のひとりの関係者だという。そうか。筆者はピンときた。
“あの3名”とはいったい誰か。これには少々説明が必要である。
まず涼月の来歴から始めたい。涼月は日本海軍初の防空艦・秋月型駆逐艦の3番艦として、昭和17(1942)年12月に三菱長崎造船所で竣工した。最大射程約2万メートルの高角砲を装備、軍艦防波堤にそろって眠る冬月とは兄弟艦に当たる。
駆逐艦の別名をティン・シップという。ブリキの船という意味である。戦艦や巡洋艦より二回りも三回りも小さい駆逐艦は機動性には優れているが、造りはブリキのように脆いという揶揄が込められた表現である。事実、涼月は戦艦大和とともに出撃する以前に、米軍の攻撃により2回大破している。特に艦首は数回取り替えられているのだ。
戦艦大和の最後はこれまで繰り返し語られてきた。映画化も1度や2度ではない。しかし、昭和20(1945)年4月の菊水一号作戦において、戦艦大和だけが沖縄に突っ込んでいったわけではない。周りを軽巡洋艦矢矧と8隻の駆逐艦(冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞)によって守られていた。しかしこのことはあまり知られていないばかりか、日本人の記憶にほとんど刻まれていない。涼月関係者のひとりとして歯がゆい思いが残る。
被弾・浸水・前進不能
4月6日、戦艦大和をはじめとする10隻の艦隊は徳山沖を出航、一路沖縄を目指すが、翌7日正午すぎ、米軍の総攻撃を受ける。戦闘機、爆撃機、雷撃機総計400機だったと言われる。
大和の沈没は14時20分。日本海軍上層部が「一億総特攻のさきがけ」と大言壮語した一大作戦は、戦闘開始からわずか2時間で決着が付いた。あまりにあっけない日本海軍の消滅である。
だが、涼月にとって本当の戦いはこの時から始まった。涼月艦上からは、海に没しようとする大和の姿が鮮明に見て取れた。が同時に、涼月もまた沈没の危機に直面していたのである。
13時過ぎ、涼月は艦橋と第二砲塔の間に直撃弾を受け、大穴が開いてしまう。船体は大きく前傾し、大量の海水が浸入して前進することができない。これに火災や誘爆も重なり、涼月艦上は大混乱に陥っていた。
平山敏夫艦長は、あくまで沖縄を目指すべしと血気にはやる若い将校達の意見を抑え込み、微速後進で佐世保に戻ることを決断する。確かに事実はそうだったのだが、生前の平山を知る筆者には疑問がある。奄美出身で血の気の多い豪放磊落な祖父がすんなり戦闘中止と母港帰還を決めたとはどうしても思えないのだ。鍵を握っていたのは涼月ナンバー2であり砲術長だった倉橋友二郞少佐だったのではなかったか。微速後進の決定の裏には、熱血漢の平山艦長を沈着冷静な倉橋少佐が説き伏せた側面があったと筆者は推測している。
その倉橋氏であるが、戦後、「海ゆかば・・・駆逐艦隊悲劇の記録」(のちに「激闘駆逐艦隊」に改題・文庫化)を著し、涼月の当時の状況を詳細に記録されている。涼月関係者にとって極めて貴重な著作である。
昭和20年4月8日、満身創痍の涼月は佐世保港に沈没寸前で入港する。艦内には戦死者のご遺体が山と積まれていた。涼月乗組員の戦死者は57名。何人かは洋上で水葬されたものと思われる。
自らの死と引き換えに
そして、いよいよ“あの3名”にたどり着く。
佐世保への帰還後、艦内の捜索が行われた。すると、前方部の第一弾薬庫から3名の遺体が発見された。しかも、その弾薬庫は内側から昇降ハッチが閉鎖されており、外部からの浸水を防いでいた。内部から防水処置を施し、自分たちが外に脱出することを断念してまで弾薬庫の機密性を確保したのは明らかだった。
3名の乗組員が籠もった密閉された弾薬庫が、涼月にとって一種の浮き袋の役目を果たしたのである。これによって大破した涼月の浮力はかろうじて保たれ、沈没を免れた。つまり、“あの3名”の犠牲がなければ、涼月は戦艦大和同様、海の藻屑と消えていたのかもしれない。あるいは、平山艦長の佐世保に帰還するという決断も水泡に帰していたかも知れない。それほど重い3名の行動だったのである。
ところが、この3名の方々が誰だったのか、どんな人物だったのかが実は判然としていない。昭和20年4月当時は関係者であれば誰もが知っていたであろう事実が、月日の経過とともに記憶が曖昧になり、正確な記録も残されなかった。
ただし、おひとりの氏名は以前から分かっていた。前述の倉橋氏の著書に明記されているからである。江藤虎蔵二等主計兵曹が喉を短刀でついて自決した姿で発見されたことが記されている。壮絶な死である。
ではあとの2名はいったい誰なのか。倉橋氏の著書に記述はない。筆者が松尾氏とともに元乗組員の方々を訪ね歩いた中でも、2名の方の氏名を記憶している方はいらっしゃらなかった。涼月に関連して3名の方の命を投げ打ったエピソードは現在でも広く知られているにもかかわらず、そのうちの2名が誰なのかが特定できていない。これは涼月にまつわる大きな謎の一つであった。
それが今、松尾氏への1通のメールによって謎が解明されようとしている。筆者には松尾氏の驚きようが手に取るように分かった。
國場勇の甥です
「軍艦防波堤を語る会」の会場・旧古河鉱業若松ビルは若戸大橋のたもと近くの運河沿いに建っている。若戸大橋の「若」は若松区、「戸」は戸畑区である。昭和37(1962)年の竣工当時は東洋一の吊り橋と言われ、映画「社長漫遊記」に登場したこともある。
令和4(2022)年4月7日午後1時、若松ビル1階の狭い講堂はいつにも増して参加者で溢れていた。その中に、メールの主である松山達司氏もいらっしゃった。会の後半、松山氏が発言する番が回ってきた。
「皆様はじめまして、ただいま紹介にあずかりました松山と申します。私は、菊水一号作戦時に自らの命をなげうって駆逐艦凉月を救った3名のうちのひとり、國場勇(こくばいさむ)の甥です。」
松山氏はこう切り出した。“あの3名”の残る2名のひとりが國場勇氏であることが初めて公になった瞬間である。
松山氏は時に涙で言葉を詰まらせながら、伯父である國場勇氏にまつわる話を続けた。会場はしんと静まりかえり松山氏の言葉に聞き入っていた。
21年前に他界された松山氏の父上は生前、「兄さんの遺骨を墓に納めたい。」とよく話をされていた。國場勇氏の遺骨は遺族の元へは帰っていない。松山氏が父の言葉を父の死の直後から強く意識したことが今回の「軍艦防波堤を語る会」での発言につながっている。
松山氏の遺骨探しの旅が始まる。
20年前、ネットで北九州市の「涼月会」の溝江美代治氏の存在を知り、松尾氏の紹介により2回ほど手紙でやりとりをしたという。「涼月会」とは地元北九州市を中心に在住する元乗組員の戦友会組織であり、溝江氏はその中心人物だった。しかし、溝江氏の尽力にもかかわらず國場勇氏のことを知るメンバーはいなかった。
実は筆者は溝江氏に一度だけ会っている。今から14年前の夏である。経緯は松山氏の場合とほぼ同じだ。ネット検索で松尾氏を知り彼の仲介で溝江氏に会う機会を得た。さっそく当時小学生だった息子を取れて小倉に向かった。溝江氏は北九州市内の病院の床に伏しておられた。溝江氏は涼月の防空指揮所で平山艦長のすぐそばで勤務していた方であった。無理を言ってわずかな時間をいただいた。そして最後に筆者の息子に言葉をかけてもらった。
「立派な人になってください。」
時は人を待たない。手をこまぬいていると次々に関係者がこの世を去っていく。松山氏も、溝江氏の死、父上の兄弟の相次ぐ死に遭遇し、あのときもう一歩踏み込んで話を聞いていれば、調査をしていればと後悔の念を抱いているのだと思う。
自らの親族があの戦争をどう生きて死んでいったのか、さらには太平洋戦争そのものの体験をどうやって後世に引き継ぐのか。戦争体験者は年々減少していく。知りたいと思っても話してくれる相手はもういない。「軍艦防波堤を語る会」で貴重な証言をしていただいた元乗組員の大田五郎氏(第二砲塔)も宮原明氏(機関室)もすでに他界されている。あと数年もすれば、涼月に限らず実体験として戦争を記憶し語れる人間は日本からいなくなるのは必定である。
だからこそ、子世代、孫世代が動く必要がある。松山氏もそんな思いを抱いて活動しているに違いない。筆者も、たとえ空振りに終わっても十分な情報が得られなかったとしても子世代、孫世代が活動を続けるしかないと考える者のひとりである。
「軍艦防波堤を語る会」の閉会後、松山氏と立ち話をする機会を得た。昭和34年生まれの松山氏と昭和33年生まれの筆者。彼は警視庁の管理職を勤め上げ、筆者は都庁で30数年間勤務した。初対面だったが、似た者同士の親しみを少なからず感じた。
※後編に続く(8月15日掲載予定)