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あっけない峠の道(東海道を歩く20)

 二年前三年前の自分は、いまの自分と周りのありようが変わることを想像できていただろうか?といったことを、最近思います。毎月毎週のように歩いていたころの写真が、ときどきgoogle photoからスマートフォンに通知されます。今ではそれらをすっかり懐かしく眺めるようになりました。自分を巡るいまの環境が、その頃とははっきりと変わってしまったからなのでしょう。
 前回の東海道歩きでは、三重県の関まで到達しました。今回は、関から鈴鹿峠を越えて滋賀県に入る予定です。梅雨入りしたはっきりしない天気のなか、空模様が心配になります。早めに出発したいので、亀山に前泊しました。首都圏とは異なり、亀山に向かうJR関西本線の沿線は、名古屋からほんの20分も乗っていれば、外は真っ暗で、すっかりローカル線のよう。このスケール感は首都圏とは違うところです。もちろん、亀山の駅に着いたころには真っ暗です。
 さて、昨晩は真っ暗だった駅前あたりも、翌朝には通学する高校生が歩いていて、そこそこにぎやかです。名古屋から亀山まで電化されていますが、亀山から先の関までは非電化で、2両くらいの気動車がトコトコ走るまったくのローカル線です。関駅につくと、観光客っぽい人間はひとりくらい。もちろん、わたしの歩き旅はこの静けさをもとめて歩いているところがあるのですが。


 昔ながらの町並みがのこる関の宿場町のような存在は、5年前に歩いた中山道の奈良井宿や妻ご宿のようなものです。その時、宿場町は多くの観光客で賑わっていましたが、その賑わいはいまの関の宿場に有りません。そんな静かな宿場町の中心にある、近くの地蔵院でも、ひと組の親子が歩いているのみです。宿場を抜けると、すぐに国道1号と合流しその脇を歩きます。名阪の二大都市圏に挟まれた地の利もあって、通るのは、ほとんどが近隣の事業所を結ぶであろう物流のトラックばかり、それでも沓掛の集落のあたりで国道と離れると、旧い街道筋の沿道とともに歩く道中が始まります。
 峠を目指す坂道をしばらく歩きます。しばらく歩くと途中には鈴鹿馬子唄会館の建物と、廃校された小学校を利用した宿泊施設があります。用を足すために立ち寄った馬子会館の建物は、思いのほか立派な施設です。近隣に食品工場を抱える企業が援助して、近隣の森を整備しているとのこと。馬子唄会館をでてしばらく進むと、あっけなく坂下宿に到着しました。


 坂下宿の集落に、あまりめぼしい旧跡は残っていませんでしたが、本陣跡と呼ばれる石碑が3つ存在するほかに脇本陣跡の石碑もあります。このことから推測できるのは、この坂下宿には、鈴鹿峠を前にしてたくさんの大名一行が止まったことでしょう。このたくさんの客を泊めるため、たくさんの本陣や脇本陣をかかえる、そこそこに大きな規模の場であったことです。坂下宿をあとにして少しあるけば、あっというまに鈴鹿峠にさしかかる山道に入ります。片山神社という途中の小さな神社をすぎてからは本格的な山道。・・・と思ったら、ほんの10分ほど歩いてあっけなく鈴鹿峠に到着しました。あっけなく到着した鈴鹿峠なので、周りの光景も、それほど山深いところという印象はありませんでした。峠の隣には茶畑が広がっており、ここで日常の生活が営まれている痕跡がすぐちかくです。茶畑のなかにはとても大きな常夜灯が残っています。移設されたとはいえ、ここが重要な街道であることを示しています。


 簡単に鈴鹿峠は越えたものの、ここから宿場までの道のりは思ったより長いもので、体感的にきつい歩きになるだろうなと予想できました。ここでも国道1号に合流し通る車を横に見ながら、いくつかの集落を抜けて山を下って行きます。コロナ騒ぎのあとは、沿道の見知らぬ人から話かけられたり、話かけることはすっかり少なくなりましたが、ここでは気にせずにあいさつをかわします。
 すこし道中が単調に感じられて飽きてきた頃、目の前にこんもりとした森があって、街道はその森の中に入っていきます。すこし歩くと赤い橋を通って川を渡ります。どうやらこの森は近くの田村神社の境内であるらしく、境内であることに気が付かずあるいていたのでした。田村神社は思いがけず立派な境内と社殿をもつ神社で、道中のこれからの無事を願い参拝します。境内の森を抜けると、唐突に土山の宿場町が現れます。隣接した道の駅で、昼食と休憩をとります。


 この土山の宿場町のあたりは、いままで街道歩きをしたなかでも、一番親切なのではないかというくらい街道歩きの案内が親切だったのです。街道であることを示すように、舗装の色が変わっているのはもちろん、町の案内図にも細かい説明書きが添えられています。もちろんこちらも旧い家屋や宿場町の雰囲気はたくさん残されています。そして、いったいどこまでが宿場町なのか?というくらい家並みが続き境界がよくわからなくなっています。中山道のときも、がまぢかにした近江の宿場あたりから、しだいに宿場町の内と外の境目というのが、あまりはっきりとはわからなくなったのを思い出しました。
 しばらく歩いても、宿場町の続きのような町並みが続きますが川と渡しのあたりで、ようやく途切れます。このあたりは、川を挟んだ両岸の段丘上に集落が開けています。街道は段丘の上を通っていて、対岸にも、似たような段丘と似たような集落が見えます。途中に一里塚の跡と一里塚のや大木を眺めつつ進みます。それらの途切れない集落の景色に飽きるころに水口の宿場町にはいります。


 水口にはJRが通っているわけでもなく、近江鉄道だってどう見ても基幹の公共交通機関には見えない、ただのローカル私鉄です。地図上からは、とてもここが大きな町には見えないのですが、町はまったく寂れた様子もなく、思った以上に大きな町でした。かつての宿場町はそのまま中心市街地として、いまも存在しています。本陣跡と記された石碑にはあっけなく到着して、そこから近江鉄道の水口石橋駅に向かいますが、思った以上に離れていて、その沿道には、かつての宿場町の風情の残る町並みが、延々と続いています。踏切の近くには祭りのモニュメントが建てられています。


 今回の歩きはここまでです。運動することも少なくなって、久しぶりの歩きにはかなり消耗しました。近江鉄道の水口石橋駅から帰ります。平日の午後でもあり、車中では近隣の高校生の帰宅とぶつかりました。昔ならこのような場合の車中は、わいわいがやがやとにぎやかで、うるさくてうっとおしくさえ感じたのでしたが、いまはほんとうに静かなものです。もくもくと高校生たちはスマホを眺めています。けれど、この静けさにはぴーんとした張りつめた空気のようなものはありません。首都圏の通勤電車のような殺伐とした静かさとは違っていて、この静けさは好ましい感じです。
楽しく歩くにしては、沿道が開けすぎるのがすこし気になりますが、ールの京都もまもなくです。次回の歩きでは到着できるでしょうか。

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