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メリー・モナークin大原田 第九話

 寒さが緩む日がふっと訪れて、春が来たかと気持ちも緩む。その頃合いを見計らってか、「まだ油断するなよ?」と言わんばかりに寒風吹きすさび、勝手に裏切られた気持ちになってくしゃみをひとつ。梅の木に雪がちらついています、というニュースが流れた頃、いよいよ母さんの脱毛が始まった。それに備えて、ベリーショートになっている。
 こないだ不意に思い出した、腰までロングヘアーだった母さんの後ろ姿を思い出す。くるくると髪を丸めていることがほとんどだったけれど、あの長い髪の毛をバッサリ切る決意をした時と、否応なしに抜けていく髪の毛を見る今と、母さんにとってどちらがより辛いものなのかを想像する。
「今のくしゃみは風邪じゃないから」
 と言いつつ、念の為、家族全員マスクをして過ごすのは、母さんに風邪を引かせないためである。
 春休みに入り、一度実家に戻ると言うと、なぜか友也も着いて来た。絶対に迷惑をかけないと言う友也は、果たして我が家では、姉ちゃんどころか元気な頃の母さんの家事力をも凌ぐ勢いで、我が家の家事の効率化を図り、母さんから「家政婦のトモナリさん!」という、どこかで聞いたことあるドラマのタイトルみたいな異名を勝ち取っていた。
「掃除機とか、クイックルワイパーは物置に入れない方がいいです。掃除が億劫になるから。リビングのこういうところに置いて、すぐ取り出せた方が」
 と解説しながら、ゴミ箱の横の隙間にシレッと掃除機充電スペースを作り、
「一品ずつ工程考えてると面倒なんで、まず、今日使いたい食材、全部冷蔵庫から出しちゃって、こうしてまとめて切っちゃうといいです。で、切った野菜、少しずつでいいんで、小鍋かボールに適当に入れておいて、次の日の朝ごはんの味噌汁用にしちゃうと楽です」
 と父さんに解説しながら手早く食材を切る。連日サラダにされていた大根は、豚バラと煮込まれ、母さんには、鶏そぼろと白菜と共に優しい味で煮込まれて行く。さらに野菜を切りながら、父さんの無農薬野菜を絶賛し、瞬く間に父さんとも意気投合もしていた。
「お母さんが大変な時に、何で友達連れて来てるのよ、遊びに帰って来たの!?」
 友也を連れて帰った時、姉ちゃんはその常識のなさに目を剥いたが、今や、自分の不甲斐なさに打ちひしがれている様子だった。何せ、小姑のように父さんに家事指導していたそのやり方が、全部効率悪いと言われているようなものなのだ。
「やるわね……友也」
 姉ちゃんはたったの1日で敗北を認めた上で、でもね、と付け加えた。
「それでも、脱毛が始まるって時は、他人の目って気になると思うのよ」
 隣の部屋から、マスク越しの母さんの鼻歌が聞こえる。もう随分前から用意していたコットンニットのピンクの帽子と、それに合わせてチラリと髪の毛が覗くようにカールされた医療用ウィッグを装着しているらしい鼻歌だった。
「ねぇ、これやっぱり可愛いわよねぇ、ねぇ友也くん!」
 姉ちゃんが母さんの入ってきた扉を振り返ってから、弱々しく俺を見る。
「……ね、他人の目って気になるのよ、いくつになっても」
 あまりの悲壮感のなさに、どこまで声を上げて笑っていいものか一瞬迷ったが、友也が
「すごく可愛いです!」
 まるで、初恋の相手みたいに言うものだから、思わず噴き出してしまう。

 5月のゴールデンウィーク明けの結婚記念日が、結婚25年目の銀婚式なのだと父さんが言うので、フラッシュモブはその日に決行することになった。
「手術は結婚記念日の後にしたい」そう言う母さんの希望も通ったらしい。
 場合によっては、フラッシュモブの決行を早めるか、遅らせるか、臨機応変に対応できるようにしようと、マメに連絡を取り合ってはいるが、来る連絡が全部「お母さん、とても元気です」と言うものだったから、逆に俺は訝しんでいた。
 そんなに元気なわけあるかい。俺だって馬鹿じゃないんだ、ドラマや漫画で見る限り、副作用で苦しむ人が多いことぐらい知ってるわ! と思いながら帰ってきたら、この調子だった。一回り体が小さくなったような気もするのだが、姉ちゃんの言うとおり、極めて順調に治療が進んでいるらしい。
 人間の余命とは、一体誰が決めるのだろう? 疑問が迫り上がっては来るのだが、再度同じ答えが返って来た時の返事の仕方がわからないので、黙っておく。
 母さんは「こんなに賑やかな食卓になって、楽しい」とひとしきりはしゃいでいたが、さすがに疲れたらしい、最初は張り切って食べていた美味しい料理を「ごめんねぇ」と言いながら残し、早めに布団に入ったことで、友也はかなり恐縮した。慌てて話題を探す。
「こないだ、円花さん、大学に来たよ」
 姉ちゃんがすぐさま食いついてきたので、打ち合わせを兼ねて夕食の後、その練習動画を見ることになった。3人でコタツに足を入れる。まだ、時々寒い日があるからね、と、出しっぱなしになっているコタツは、実家へ帰ってきた安堵と直結している気がする。
 父さんの鼻歌が風呂場から漏れ聞こえた。練習中のフラの曲だった。サプライズするつもりがあるのかとツッコミを入れていると、姉ちゃんが思い出したように言った。
「お父さんね、早朝から畑の真ん中で、円花に教えてもらったカネフラの練習をしてるの。明日早起きして、一緒に踊ってあげてよ」
 父さんにイラついていただけの娘の姿はそこにはもうなかった。それから、真剣に動画を見始める。
「円花から聞いてたけど、やっぱりみんな、空手やってるだけあって、体幹がすごい」
 フリはおぼつかないが、確かに妙なブレはない。フラダンスをやるとなると、まず、ユラユラするイメージが強いからか体幹を無視されがちだが、どのダンスでも共通している『軸をぶらさない』というのは、フラダンスのゆらめきにも一番重要なポイントだ。
 しかし、姉ちゃんが感心するこの映像のようになる前に、実はもう一幕あった。

「こんにちはー! プア・ハウオリの工藤円花と言いますー。よろしくお願いしまーす」
 はにかんだ笑顔で、花を散らすように入室してきた円花さんに、むさ苦しい男たちは一同どよめいた。プルメリアの描かれたスタジオTシャツに、薄い紫のパウスカートを履いて現れた円花さんの妖精のような佇まいは、まさに荒野に一輪の花の如しである。
「フラダンス、やったことある人いますか?……はい、真咲くん以外無しですね! カネ、あ、男性のフラをカネフラと言います。今回ガッツリフラを覚えてもらうということでいいですか?」
 妖精は、そう確認してにっこり笑った。メロメロとした顔で、全員が「はいっ」と音符マークを語尾につけたようなトーンで答える。
 サークルから、フラッシュモブの参加者はなんと14人ほどになっていた。実際によく活動しているメンバーの、およそ半数が手を挙げてくれたことになる。イメージの湧かないフラダンスだ、5、6人でも御の字だと思っていた。どちらかと言うと俺のためにと言うよりは、恩田先輩の配信に協力したいメンバーだが、それでもすごくありがたかった。
 円花さんは、わっかりましたーと答えると、準備運動をした後、履いていたパウスカートを急に脱ぎ捨てた。もちろん、その下にスポーツレギンスを履いていたわけなのだが、一同ギョッとする。その目線を跳ね返すように、円花さんは肘折した手を胸の前に、床と平行になるよう構え、大声を出した。
「足はずっと、『アイハァ』の姿勢を保ちます。膝を折り、腰を低く! お尻が突き出ても、前に出てもいけません。この基本の姿勢は、どのステップをしても決して崩れないように!」
 下半身、足のラインがくっきり見える状態で、自分の姿勢を前から、後ろから、横からと全員に見えるように体を回転させ、皆がその姿勢を取れているか、丁寧に全体を見渡している。男しかいない室内が微かに動揺しているのが見てとれた。円花さんのお尻のラインを凝視してしまうのは、もはや男のさがというものだ! と目を覆いそうになったその時だった。
 バンッ! バンッ! と床を蹴り上げる音が響いた。
『クイ』という、片方の足に重心をかけ、床を踏み鳴らすのと同時にもう片方の足を重心の反対側に蹴り出すという、上級者のフラステップの音だった。カネフラの群舞では、この音が重低音で反響し、鳥肌が立つほど迫力のあるステップなのだが、女性の、しかもたった1人、円花さんから繰り出されたそれも、ものすごい迫力だった。
「今回、突貫で進めなければ間に合いませんので、気合い入れてください。中途半端なフラにするつもりはありません!」
 全員を見渡したその迫力は、花の妖精から、火山の女神に取って代わっていた。
 あの瞬間、お尻のラインに見惚れていた誰もが、舞空のプライドをかけた演舞にしなければならないと、気を引き締めたのだった。


第十話に続く

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