メリー・モナークin大原田 第一話
ずっしり空気の重くなったリビングのコタツで、その引力に負けたように父さんが急に頭を下げたので、俺はギョッとした。
思えば、父さんが家族に頭を下げるところなんて見たことがない。てっぺんがだいぶ薄くなったなと、少し自分の頭を心配したところに、姉ちゃんがふぅーと小さく息を吐いて
「私たちじゃなくてお母さんに頭を下げてよ。まぁ、それも今更だけど」
と冷たい口調で言った。父さんは、頭を下げたまま、小さく頷く。
「お前たちに頼みがあるんだ」
それは意を決した口調だった。俺はゴクリと喉を鳴らしたが、姉ちゃんはふん、と鼻を鳴らす。
母さんに余命が告げられた。ドラマかよ、と思ったのが正直な感想だった。なんの実感も湧かない上、何をしたらいいかもてんで思いつかない。だけど、長年母さんと連れ添った父さんだ、俺がアホみたいに「嘘だろ?」とだけ考えていた1週間、さぞや悩み苦しみ、2人の今までの人生に想いを馳せたはずだ。その男がこうして頭を下げ「頼みがある」と言う。
俺はコタツの中で正座の姿勢を整え、父さんが口にする言葉を待った。
「フラッシュダンスがしたいんだ」
しばらく、俺たち姉弟の動きが止まった。俺は姉ちゃんに小声で確認する。
「フラッシュダンスってなに?」
「聞いたことある気がするんだけど……」
言いながら、すかさず携帯で検索して出てきた映像を2人で凝視した。オーディション会場らしき場所で、レオタードを着た女性がキレッキレに踊っている。母さんの人生が終わるかもしれない時に、父さんはダンスのオーディションを受けたいのだろうか? 意味が分からなくてもう一度父さんを見た。
姉ちゃんが真面目な顔で言う。
「お父さん、レオタード着て踊りたいの……?」
父さんがレオタード姿でキレッキレに踊る映像が脳内で再生されて、ブホッと鼻が鳴ってしまった。姉ちゃんはまだ真面目な顔のままである。よく笑わずにいられるな。
「……あっ間違った! ええと、フラッシュダンスじゃなくて……なんて言うんだ、あの、色んな人が突然踊り出す、ミュージカルみたいなやつ……ええと……」
「もしかして、フラッシュモブ?」
姉ちゃんは、最初から答えがわかっていたみたいに父さんの顔を覗き込んだ。
初めは、最近やたら疲れが溜まると言いながら、いつも通り仕事に家事にと動いていた母さんが、夜、洗濯物を干さずにうっかり寝てしまった、というのを聞いた時、姉ちゃんが東京からすっ飛んで帰ってきて、母さんを無理やり病院に連れて行ったらしい。母さんは、昔から常にずっと動いている人だったから、すごく嫌な予感がしたと言っていた。
そして母さんは、あまりにもあっさり余命宣告を受けたのだ。
慌てて帰った俺は、かつて自分の定位置であったコタツの一角に足を突っ込みながら、姉ちゃんの報告を聞いた。
この日、母さんはまだ病院で、明日には家に戻ると聞いていた。余命宣告というからには、病院のベッドでもう二度と家に戻れず衰弱するイメージを想像していた俺は、それを聞いて少し驚いた。
母さんは、「まだ55歳、孫の顔も見ずに死ねません!」と病院でキレちぎったらしいので、ますます実感も湧いてこない。何かの冗談に決まっているし、姉ちゃんが「騙された?」と笑いだすのを待ったが、一向にそのセリフは出てこなかった。
「疲れてるなら何もしないで良いから早く寝ろって言ってたんだ」
姉ちゃんから、母さんの体調の変化に気づかなかったのか、どうしてもっと早く病院へ連れて行かなかったのかと責められた父さんは、明らかに狼狽えていたが、いつもの自分を取り戻すべくそう言った。
「何もしないで良いって言うのが優しい発言だと思ってるならお父さん、本当の優しさを真咲と一緒に学び直した方がいい」
姉ちゃんが、大黒柱の座を引き継いだような堂々たる佇まいで父さんを指さす。
なんで俺がそこで出てくるんだよ、とすかさず突っ込んだら
「だってあんたも、どうせお父さんみたいに「男とはこうあるもんだ」とか言ってるタイプでしょうがこの空手バカが。だから彼女も出来ないのよ」
姉ちゃんは、ナイフみたいに尖っては、触る家族を切り裂いていく様相だ。
「空手も彼女も関係ないだろうが! そっちこそ男と別れたじゃねぇか。母さん孫の顔が見たいって言ってるのに25でフラれるたぁ、あんたも親不孝だねぇ!」
いけね。売り言葉に買い言葉、そんな言葉が頭をよぎったが、時すでに遅しである。
「25歳に彼氏と別れただけで、真面目に生きてる私のどこに親不幸ポイントがあるんだ。お前まさか、私が子供を産まなかったら親不孝と宣うつもりか……?」
すでに目が血走っていて、切り裂きジャックの面構えである。俺は腰を浮かせ、逃げる体制を整えた。
「落ち着け花乃!」
ようやくそこで父さんが、父らしい威厳を取り戻して姉ちゃんを止めた。
「今、お前らの喧嘩を聞いている心の余裕は正直ない。……俺は、これから母さんとどう向き合うか、母さんがどうしたいのか考えたい。悪いが宿題にさせてくれ。花乃の言いたいことも分かってる」
父さんはそれきり黙ってしまい、翌朝、病院から戻った母さんと言葉を交わした後、一度、俺は大学のある埼玉へ、姉ちゃんは仕事のある東京へと戻った。
それから1週間後だった。
『今週末、帰って来られたし』
父さんからのLINEに、電報かよ、とつぶやきながらOKと返事を打つ。
実家までは、特急に乗り込めば2時間かからない。ケチって高速バスにしても3時間はかからないので、今はまだケチることにした。
今はまだーー。
もしかして、慌てて特急に乗り込む時が近くくるんだろうか。バスから見える景色を見るともなく眺める。高速バスで2時間も過ぎると、そこには地平線まで果てしない田んぼが続いている。今までなんとも思ったことがない2月の見慣れたそれは、どこまでも続く荒涼とした大地に見えた。その先にある実家が、とんでもなく遠く感じる。
実家の玄関を開けると、姉ちゃんはもう家にいて、父さんに家事を仕込んでいるらしかった。
「お母さんがなんでもやってくれるの、当たり前だと思わないでよ」
今日も、姉ちゃんの父さんに対する当たりはとても強い。だけど、いつもの父さんなら「うるさい」と一蹴しそうなものなのに、素直にまな板を洗っていた。母さんがそれをソワソワとテーブルから見つめているのだが、どうやら姉ちゃんに座ってろとでも言われたのだろう、俺の顔を見て、ホッとしたような顔で「真咲おかえりぃ」と縋るような口調で言った。
夜ご飯は姉ちゃんと父さんが作った、やたら肉や野菜が放り込まれた大量の煮物で、正直何料理かわからないものだった。姉ちゃん、東京でも料理作ってねぇなと思ったが、切り裂かれそうなので文句を言わず、なんなら少し褒めながら食べた。にもかかわらず、皿洗いは俺がやらされた、とんだとばっちりだ。
「なんだかもう、落ち着かないったらありゃしない」
母さんは、自分を心配してギスギスする家族に不満を表していたが、それなりにはしゃいだ後、疲れたといって先に寝た。
それから残された3人が無言でコタツに身を寄せ合う。空気の重さに耐えられず、なんと話題を振ったものだろうかと考えていたら、父さんは、意を決したように
「宿題の答えが出た」
と言うと俺たちに頭を下げたのだった。