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四十九日も過ぎました



久々の投稿になりました。前回の投稿からあれよという間に衰弱して、闘病していた猫は急逝しました。

直接的な死因は、強制給餌を強行しようとしたことによるショック死だと思います。要は飼い主である私が手をかけたようなものなんですが、
これは思い出すとかなりしんどいので、また折を見て振り返れたらと思います。

さて、四十九日も済み、近頃はだいぶ落ちつきました。

とはいえ、写真に写る猫と目が合うたび、まばたきを向ければ
幻覚でも返してくれるんじゃないかと、ついやってしまいます。

それから朝起きるたびに、「おはよう、今日もかわいいね」と話しかけます。
何か返ってこないかなと。
例えば骨壷がカタンと鳴ったり、写真立てが倒れたり。 
よく、ペットが亡くなった後の不思議な現象、といった話を見聞きしますが、なかなかそうはいかないみたいです。

後悔や自責の念は今も絶えず続いています。

結局のところはただただ寂しい。
それから、物足りない、つまらないという冷めた感覚が、常について回るようになりました。
あの子がいなくなったことで、もう私の人生が完璧になることはなくなったわけなので。

この先どんな良い出来事があっても、手放しで享受できる幸せは二度と味わえないんだなと、漫然とした絶望感が人生にプラスされました。

一番初めの投稿で、『猫を飼って後悔している』と書いたけれど、
その気持ちは今も変わらず、「こんな想いをするなら出逢わなければよかった」と、どこぞのラブソングのごとく引き続き後悔しています。

「つらい思いをしても◯◯を知らない人生よりずっとマシだ」「悲しみを乗り越えることで人として成長できる」というポジティブな台詞も世の中にはありますが、

いやいや、つまらない人生でいいよ、成長できなくていいんだよ。
あの子がいないなら全て無意味なんだから。

と、捻くれた思考をしてしまいます。

『猫を飼うということは幸せの前借りである』とは、これもまたよく言ったものです。
的のど真ん中を射ていると心底思います。大げさでなく、薬物に近いと。
手軽に多幸感を得られる代わりに、そのツケは思うよりずっと早く、あまりにも強い反動で襲ってくるのですから。

いや、もう充分理解しました。痛い目も見たし、充分反省しました。
次はもっとうまくやります。

だから、安心できると思えたらでいいからさ、すぐにまた帰ってきてよ。

そんなことを毎日、写真の中の猫に語りかけています。

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