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悲しみの噴水を1つ持つ〜父の死に際して思う

50肩からは少し外れるが、50代60代は親との死別の年頃でもある。
私も先月19日に父を亡くした。
時系列にはならないが、見取りとその後の様々な手続きについて思うところを書いてみたいと思う。

今日は、初めて家族と死別した私の変化について。

父の死に関して、私は納得していると思う。そもそもあまり過去を思い返すタイプでもない。(そのかわり記憶力もほぼニワトリ並みである)

だから、日常の中で悲しみに沈んでいる時間はほぼない。思い返すことは時々ある。だが、それが後悔とか悲しみとかに繋がることは稀なのだ。

これは1つには死生観にもよるだろう。
私は死ぬことは解けることだと思っている。人の形をした袋の中に、小さな粒々がたくさん詰まっている。生きている間は、その袋の中を出し入れして同じ形を保っている。死んだら、袋の口が開いて溶けて、中身がハラハラと散っていく。小さな生き物や微生物に食べられて、生き物や微生物の一部になり、土に溶けて水に流され、その一部になる。風に吹かれて光に弾んで、空になる。
目に見えるものと目に見えないものは同じ循環の仕組みにあると考えている。だから、魂のようなものも、生きている間は捧げたり受け取ったりして、死んだら解けて世界に溶ける。

私の中では、死ぬことと失うことは別なのだ。
もちろん、死別は悲しい。あの笑顔に会うことは永遠にない。声を聞くこともない。体温も。記憶力ニワトリの私の体には、数十年前に亡くなった犬の体温を今でも忘れない。大きな体なのに子犬のつもりで寄りかかる体の重みを忘れない。

父が施設で暮らしていたことも死別を薄くした。父が生きている頃から、私の日常生活から父の存在は消えていて、食事を作る量も変わることなく、買い物も今まで通りだ。変わったことといえば、もう施設に面会にいく事がないことと、家に大小2つの骨壷が置かれ(小さい方は海洋散骨のためのもの)、花や大好きだったコーヒーを供えていることくらいだろう。

湿っぽいことを嫌う父らしい別れとも言える。

そんな私が、悲しみに足を取られる時がある。それは父の死について誰かに話した後だ。家族が亡くなると、お世話になった方々にご挨拶に伺う。その後が、どうしようもなく悲しくなる。平穏な日常の地面の底から、悲しみの噴水が湧いてきてあっという間に浸してしまう。
言葉にすると、私と父とに起こったことの輪郭がくっきりなぞられたような気になる。話せば話すほど、それは岩のような存在感をまとってくる。

ひとり、家にいると抜け出せなくなる気がするので、出かける。子供の頃から頭の中がモヤモヤすると散歩をする。散歩をしても解決するかというと、必ずしもそうではない。それでも気分は変わる。外の空気や空の下にいるだけで水浸しの世界から知らず知らず抜け出せている。

こうして書いていると、また噴水が湧き出しそうだからこのあたりで終わろうと思う。そう、これからも私の中で小さな噴水は静かに存在し続けるのだろう。

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