とりとめないかもしれない話

今って、こうしてインターネットを通じて記録された言葉や画や音などから、その人を認識したりできるわけですよね。有名無名限らず。表に何を出すか表すかによる情報の領域には差があるけど。誰かにとってのこの人の人物像とゆうのがいくつか想像されて物語が進んでゆくような感じでひとり歩きもするわけで。

インターネットサークルのなかで、同じものを見ていても自分が見えているようには感じない思わない、なんなら真逆の思考で見ている人も同時にいくつか存在することを知ったりもします。同じものを見ても喜怒哀楽の尺がそれぞれにあることを知り驚くこともある。多様さに輪をかけて多様多様な人類の日常が毎分毎秒記録されて膨大なデータになってゆくのを想像します。

個として自分は一人なのだけど、インターネット枠ではいくつもの人物像が存在するかのように。この人は何に興味があって興味を持って滞在する時間や種類まで、朝なのか夜なのか、何を読み観て聴いているヒトであるか、買い物視点では何歳くらいのどこに所在し、どうゆう物を欲しがるとか好みだとか、、

総括したデータ管理を専門にする機関でもあるなら、まぁ、個人情報保護法のもとに可能な限り必要にも不必要にも吸い取られる情報により、人物像や実物像とは関係なくただただ情報としてのヒトの数が膨大にある。それはここ数日だけ抜き取って判断もできれば、データで遡れば2000年代くらいから積み重ねてきた情報をどのようにか可視化したらば、いくらでも人物として浮かびあがるみたいな。ヒトがヒトを認識することのいろんな視点からそのヒトはこうゆう人間であるとゆう見方が1つ以上は必ずある。

人間って、そうゆう生き物よねー。
多面 、、多様、、 多角、、

こうやって文字積んでるだけなら公表しなければ誰にもわからないけれど、公表して誰かが目にしたとして、親しいヒトに必ずしも届くわけではないし、むしろ知らない方のほうがちょっと立ち寄って去ってゆく、通り過ぎてしまっても、通るところを通ってくれる可能性がある、みたいな。時間軸に乗っかってみないとわからないこと。

と、ゆうことで、とりとめもなく終わります。

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