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「40を過ぎても料理ができない」を探る

40を過ぎても、いまだに家事全般がうまくできない。

特に料理が下手なのです。

この戸惑いはあれに似ている。
小学生の頃、母の達筆な字を見て、大人になれば私も自然と字が上手くなると信じ込んでいたこと。残念ながら私の字の進化は叶わずにいる。(ちなみ小学生の娘の漢字練習を手伝ったとき、私が書いた一文字を先生に思い切り赤ペンで直されていたのを見たとき、もう笑うしかなかった)

掃除はまあ、わりとなんとかなっている。キレイ好きな方ではある。

しかし料理はさっぱりダメで、たまにおしゃれな料理本を借りてきて見よう見まねで作ってみるのだけれど、「この料理の味の着地点がわからん」となる。味が薄い。同じように作っているはずなのに。そして何か足してみる。だいたい味の迷子になる。とはいえ、この料理、私、食べたことないぞ、正解知らんぞ、となり、どうしようもなくなると、途中で夫にバトンタッチする。すると夫は研究者ごとく、味の探索に入り、彼なりの味の落とし所を見つけていく。味見をさせてもらうと、なじみのある味に落ち着き、もはや当初作ろうとしていたものは姿を消してしまったけれど、美味しく食べられるなら、それでよしとする。

昔からそうだった。付き合う男性はいつも私より料理が上手になる。彼らはめきめき料理を上達させていく。これまで料理などしたことがない、みたいな人たちが。料理の楽しさに目覚め、次第に調味料に凝り始める。料理本なんかを買ってきて、コツコツと学びを深めていく。そうなると、もう私は追いつけない。だけど、料理が下手な私を彼らは責めることなく、むしろ「その席はいただいた」とばかりに、料理担当をかってでてくれた。その他の家事、例えば洗濯を干すという行為に関しても、引くほどキレイに干す人がいて、これは性格によるものだろうか。家事に関して男の方ができないっていうのは多分嘘だなと思ったり。(それを友人に言ったら、ただくじ運がよかっただけだと言われ、まあそうなのかもしれないねとも思う)

そのうち娘にもあっけなくぬかれていくのだろうか。むしろ、その方がよいのだけれど。

「料理が下手なのは、食べることに関心がないからでしょ」と姉に言われ、小さい頃から私を見てきた彼女はそう分析するのだけれど、グルメだけど料理が下手な人っているよね、きっと。

学生時代、あまりに貧乏で、菓子パンかじるか、家でホットケーキ焼いて食べるかしていた人間なので、食の優先度が低い暮らしを続けた結果なのだろうか。いや、その前にお金がないにしろ、そんな雑な暮らしができてしまうというのは、人として問題があるのだろう。

美味しいものは特別なときに食べるというのでよくて、普段は空腹を満たしてくれる、普通に喉を通るものであればよし、と思っている。

とはいえ、逆に40過ぎても料理が下手でも困らない暮らしをしているともいえるだろう。夫は私よりも料理上手だし、私の下手な料理にも文句をつけない。というか、平日は帰りが遅いので外で済ませてくることが多い。いまどき、美味しい冷凍食品は多いし、便利な料理セットもたくさんある。

「料理が下手でも困らない人生」が私をますます料理下手にしたのかもしれない。ああ、言い訳ですが。

この年齢になって、ふと思ったのです。

そういえばお母さんのように黒豆を煮ることもできない、重箱のおせち料理を作ることもできない、クリームコロッケもグラタンも上手に作れない。

なんなら縫い物もできないし、着物も一人で着られない。お花もうまく活けることができない。前述の通り、字も小学生から変わらぬままで、保護者とは思えぬ字で娘の通知表に、内容だけは親らしい文章を書く。

ちなみに、ペーパードライバーなので、免許はあるけど車の運転もできない。

大人になったらできると思っていたことがことごとくできないままだ、努力もしないから、ずっとできないまま。この違和感。そろそろ危機感を感じてはいるが、多分しばらくはそのまんまで暮らしていくだろう。

そしておばあちゃんになった私は、私の中のおばあちゃん像(編み物するとか、豆を煮るとか、畑耕すとか)とのギャップを埋められないまま、小学生から変わらぬ字のまま、シブい水彩画のポストカードに友達への近況を書き綴り、「あんた、変わんないねえ」とか言われてるんだろうなと思う。それでいいのか? そろそろ考えどきだなと、思ったり、思わなかったり。














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