14.「アート」と「エンターテイメント」
私はなにか作品を作ることが好きだ
歌や絵、映像作品、このnoteもある種の作品だと思う
ただ、これらの作品について考えていくときに音楽や、絵、映像作品は共通して「アート」と「エンターテイメント」という二面性を持っていることに気が付く
しかもそれは、作品の形式によってばらつきがあって、同じ作品だったとしても捉え方によってはアートにもエンターテイメントにもなりうる
他にも「人生」なんかも時々、アートやエンターテイメントだとされることがある
こうなると、僕の中ではますます、「アート」と「エンターテイメント」の本質はなんなのだろうと気になる
例えば、
ショッピングモールの中で時々見かける似顔絵師は「アート」ではない
駅前であいみょんのカバーをしている人も「アート」ではない
人気アニメの望まれない実写映画も多分「アート」ではない
自ら生み出した価値観や考えである「オリジナリティ」と「アート」にはとても密接な関係がある。「アート」は自己表現とされることが多いから、多分ここの点に関しては一般の共通認識としてなっとくできる
例えば、
ノートの片隅に書いてある落書きは「エンターテイメント」ではない
一方的な片思いの男性が書くラブソングは「エンターテイメント」ではない
友人との旅行先で何気なく回すビデオは「エンターテイメント」ではない
不特定多数の娯楽として昇華されることを前提としていないものは「エンターテイメント」ではないだろう
だが、back numberの片思いの曲は間違いなく「エンターテイメント」には属している気がするが「アート」のような気もする
旅行先のビデオも、ガン治療をしている人のビデオだとしたら、ドキュメンタリー映画として映画館で流すと「エンターテイメント」になる気がする
不特定多数へ発信される作品が「エンターテイメント」で、発信される前の卵の段階が「アート」だと仮定できるだろうか?これはすぐに判例が見つかる。
ピカソの絵は誰でも知っているが、あれは紛れもなく「アート」だろう
音楽は不特定多数へ発信されるとエンターテイメント性が強くなる気がするが、絵画はむしろ逆のような気がする。不特定多数へ認められれば認められるほど「アート」としての価値が上がっていく。
音楽と絵画では性質が違うのは当然だけれど、これは何がそうさせているのだろう?
その一つの要因として、「対話性」がある
古来より音楽には、詩と呼ばれるメロディーに合わせて発せられる言葉が備わっていることが多い。その言葉は曲のコード雰囲気と巧みに組み合わさり、聞いている人の心と共感し感動を生む。そこには、演奏者と客との間に特有なコミュニケーションを生じさせ、双方向の感情のやりとりがある。このコミュニケーションのことを一般的にはライブと呼んだりしているが、これは非常に「エンターテイメント」的である。
一方で、絵画はどうだろうか。絵画には文字や言葉が、何か意味のある文章として連なっていることは少ない。たとえ連なっていたとしても、それは文章に主軸が置かれているのではないことが大抵だろう。このとき、作者と客との間に双方向的なコミュニケーションは存在し得ない。客は一方的に、作者の感情を汲み取ったり、訳がわからないとその難解さを楽しんだり、はたまた、作者の意図などどうでも良くなって自分自身の感情を観察したりするのである。これは実に「アート」的な行動だ。
ここまでのことをまとめると、「エンターテイメント」と「アート」の違いは作者と客との間に作品を介したなんらかのコミュニケーション(例えば言語による共感など)があるかどうかである、ということになる。