5.存在の肯定感情
前回の投稿からしばらく空き、本日は久々の投稿です。
今日は愛や命、生きることについて僕が今考えている事を記録しておこうと思います。
僕が思う”愛”の定義は、”存在してほしいと思う気持ち(存在の肯定感情)”で、
僕が思う”憎しみ”の定義は、”存在して欲しくないと思う気持ち(存在の否定感情)”です。
自分がとある人を愛している場合、私はその相手が生き生きしていると嬉しくなります。相手がこの世に存在したがっているからです。
好きという気持ちは愛とは少し異なるように思います。相手の存在を感じる事で自分が生きている事を実感できる、相手の存在が自分の生きがいになっている、そのような状態を生む感情の事を好きと呼ぶのだと思います。つまり”好き”という言葉の主体は自分自身ですが、愛の主体は自分とは限りません。
自分を愛することができなければ、相手を愛することはできません。それは、自己の存在を否定する場合、自己意識は失われてしまい、相手の存在を認識できなくなるためです。だからいつも自己の存在を認めてから、相手の存在を認める事になります。
自己卑下と謙遜は似ていますが、愛の観点から見ると大きく違います。自己卑下は単に自己の存在を否定しており相手の存在に関しては言及しません。ただ謙遜では相手の価値を自分よりも高くすることで、相手の自己肯定感を高める狙いがあります。謙遜は相手の存在価値を肯定する行為であり、そこには愛情が存在するわけです。
人は人から愛情を受け取ると、自分の存在が肯定されていると感じ、生きてても良いのだと感じます。これは先ほど述べた好きという感情が形成されるメカニズムです。相手を一度好きになると、自分にとってその相手が大切な存在になるので、その相手にずっと存在していて欲しいと思うようになります。この状態ではまだ、好きという気持ちと愛情が混合していますが、いずれ相手によって自己肯定感が完全に満たされると愛情だけが残ります。こうしてエロースやフィリアがアガペーへと変化していくわけです。
私は愛に関して、その複雑で神秘的な感情に対してとても興味があります。
きっと今述べたような愛の定義は今後もずっと僕の中で変化し続けていくと思います。だから今日はその軌跡を一度ここに記録しておきます。
最後に、
エンターテイメントは感情を扱うことができる唯一のお仕事です。僕は僕のエンタメを体感した人が、いつもよりもう少し生きることが楽しく思える、そんなエンタメを作りたと願っています。なぜならそうすれば、僕がその人を愛している事になるからです。僕はエンタメによって相手の存在を肯定していて、エンタメによって多くの人を愛している事になります。僕の周りのできる限りの人を愛していくことが僕の使命なのではないかなと今は感じています。
また時間が空いたら更新します。