33夜 私たちの国に共助はあるのか(1)
10月5日の埼玉新聞(yahoo配信)によると,埼玉県では子供虐待禁止条例案なるものが虐待防止条例の改正案として委員会で可決され本会議で採決されることになったようだ.以下のはその記事の抜粋.
「埼玉県議会最大会派の自民党県議団(田村琢実団長)は4日、住居や自家用車内に児童が放置されて死亡する事案を防ぐ目的で、県虐待禁止条例の一部改正案を開会中の9月定例会に提出した。改正案では小学校3年生以下の児童の養護者は当該児童を住居、その他の場所に残して外出することなどを禁じ、4~6年生については努力義務とする。罰則規定は設けない。虐待を受けた児童を発見した場合、速やかに通告・通報すること、各自治体が待機児童解消、児童放置の防止に資する施策を講じる規定を合わせて盛り込んだ。」
要するに,子供のいる世帯では,子供を片時も一人にしてはならないということのようで,ごみを出すにも子供を連れでゴミ出ししないといけないといったような理屈が通るようだ.罰則規定はないものの,通報規定はあるとの事である.虐待は当然の事ながら許されるべきものではないのだが,この改正案に対しては,多くの方々が「現実にそぐわない」との意見を持っているようだ.賛成する方の意見には「虐待防止に対して考えるきっかけになる」との見方があるようだが,筆者の意見としては「ならば,なぜ委員会や委員会の議案になる前に,もっと活発な議論になるように議員が社会に対して働きかけなかったのか.結局のところ「自助」頼みでしかなく,問題の解決にはならない.」という考えである.
来日間もない外国人児童の保護者の多くは,日本の学校の登下校に関して違和感を持つことが多い.要するに「子供だけで登下校するなんて,なんて物騒なことをさせるの.」ということだ.外国人から見れば,これも立派な「児童虐待」にあたるのだろう.日本人からすると,小学生の集団登校(東京あたりでは,そうでないところもあるだろうが,地方では,毎朝小学生が集団で登校する姿は,ごく一般的な風景だろう.最近は,そこにボランティアで付き添うシニアの方々がいらっしゃったりする.)は昔からあることで,この条例改正では,どんな時でも必ず大人が付き添わなければならないということになる.
こういった自助を前提とする考え方に,私たちはどのように向き合うべきなのだろうか.
イギリスのチャリティー機関「チャリティーズ・エイド・ファンデーション(CAF)」が2009年から世界の国々を対象に,人々のGiving(他者に与えること、寛容度、人助け度)の状況を調査して発表している”World Giving Index”(世界人助け指数)(参照:https://www.cafonline.org/docs/default-source/about-us-research/caf_world_giving_index_2022_210922-final.pdf)
というものがある.2022年の調査(全119か国)によれば,「人助け度」において我が国は118位で,最下位が119位のカンボジアで,総合順位も同様であった.49位の中国や88位の韓国と比べても,とてもお寒い状況なのだ.
日本のこの順位は,今にはじまったものではなく以前から後ろから数えた方がはるかに早い順位ではあった.では,この国は,そんなに冷たい国だったのかといえば,少し前までは,明治初頭の外国人がこの国を訪れた際に異口同音に自国民に対して日本の状況について「庶民が,清貧ながら明るく生活する様子やカギを掛ける必要のない家屋への驚き」にみられるように,おだやかで安全な国状と互助の精神が庶民の間に当たり前のように浸透した社会であった.このような社会環境は,大正期や昭和期においても少なからず続いていたと思われる.この国の人々は,果たして人助けに冷たい国民なのだろうか?このような相反する見方について,私たちはどのように考えればよいのだろうか?続きは次回に考察してみようと思う.
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