「言葉」と「言根」
トバリさんは「言葉遊び」が好きだ。
言葉遊びにかまけすぎて、お母さんに
「言葉遊びは1日一時間までにしなさい!」
と制約を設けられてしまう程であった。
......かどうかは最早遠い彼方の記憶であり定かではない。
が。
言葉は面白い。
という言葉の、その「コトバ」。
「コトバ」は何故「言葉」という漢字で表されるのか?
「コトバ」の語源とは何なのか?
ご存知だろうか。
古くは言語を指して「言(こと)」と表した。
成り立ちの時には、まだ葉は茂っていなかったのである。
「言(こと)」は「事(こと)」と重なるもので、
「事実にもなり得る重い意味」
というニュアンスを持たせて使われていたそうだ。
そこから、
「事実とか重っくるしいものだけが、全てじゃないよねー。
もうちょっと軽い意味合いでも使いたいよね。ぶっちゃけ。」
ということで、言(こと)に端(は)を付けて「ことば」というコトバが生まれたのだ。
なんと!
言葉遊びがしたいから、「コトバ」を作ったということである。
口から出るもの全てが「真実」であるとは限らない。
「嘘」もあれば、「冗談」もある。
「ことばにならない「コトバ」」もあったかもしれない。
昔の人も、「ことば」の豊かな方向性に気付いていたのだろうか。
その証拠に、成り立ちこそ「言端(ことば)」であったが、他にも様々な漢字が充てられていたそうだ。
その時に「言葉」も使われた。
あるいは「言羽」なんてのもあり、これも軽い物言いを表している。
「言羽」でコトバ、なんて中々素敵ではないか。よく言い表されている。
その上で「言葉」が残った理由としては、「古今和歌集」にこんな歌があることに由来するのではないか?と考えられている。それは
やまとうたは ひとのこころを たねとして
よろづのことの 葉とぞなりける
なんと素晴らしい表現!
人の心を「種」として、「葉」となる!
良いですねぇー。
言い得て妙。
作詞をする身のトバリさんとしても、感服でございます。
これが「コトバ」に「言葉」という漢字を充てた由来であった。
もし現代に「言葉」というコトバが無かったとしたら......
古き人は、和歌に散りばめられる幾千もの言(こと)を、心の種から茂る葉の様だ。と表現した。
現代版にすると
よろづのことの ネットぞなりける
とでもなろうか。
かたや心情を和歌に乗せた時代。
かたや心情をネットに乗せる現代。
インターネットもまた、人の心を種とし、広がってゆくものだと感じる。
ネットぞなりける。
言葉ならぬ、「言ネット」
転じて、「言ネ(ことね)」
ネに漢字を当てはめるならば、やはり「根」であろうか。
もし「言葉」がなかったら
現代風には「言根」なんてどうだろう。
見えない所に伸びてゆき、広く深く伸びてゆく「根」は、まさにインターネットの情景をよく映せていようではないか?
「言根(ことね)」
幾年後か、
「現実世界で交わす言語」=「言葉(ことば)」
「ネット世界で交わす言語」=「言根(ことね)」
と使い分けられる時代が、あるかもしれない。
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