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二匹の獣

 小学生の頃、飼っていた犬が病気に臥せることがあった。学校に行っている間に死んでしまったのではないかと、家に帰ってから安否を確認するまでのあの数秒が一番不安で緊張した。今抱えているのはそれと同じ感情だ。それともいつ爆発するか分からない危険物を身体に巻き付けられている感覚だろうか。

 二階でくだを巻いていた静寂がわたしの立てる衣擦れの音に飛び起きた。わたしは浅い呼吸でポケットの重みを意識しながら部屋に近づいていく。ドアノブに指をかけ一度静止。犬と爆弾とが同時に頭に浮かび、爆弾をくくりつけられた犬になった。案外これが一番近いのかもしれない。

 ゆっくりとドアを開ける。カーテンの閉め切られた室内でも静寂がふんぞり返っていた。ベッドの上には一匹の巨大な芋虫。わたしは安堵するのと同時にさっきまでの不安に無性に腹が立って芋虫の皮膚を剥がした。

「お姉ちゃん、ご飯」
 続けざまにカーテンを開け、もう一度呼びかける。
「もう起きなよ」
「ん」

 姉は緩慢な動作で起き上がり、寝乱れた服を整えると無造作に髪をなでつけた。西日に顔を顰めながらわたしをまじまじと見て、「おはよう……」
「うん、もう四時だけど」
「そう……あたしまた起きれなかったんだ。今日は絶対朝ちゃんと起きて外に一歩でも出ようって決めてたんだけどね、でも夜眠れなくてね」
 姉は泣き出す直前の表情で、
「本当にごめんなさい。ダメなお姉ちゃんでごめんなさい」

 わたしは溜息を殺すのに必死だった。「勝手に落ち込んで一人で気持ちよくなってんじゃねえよ!」そう叫びたい気持ちも何とか心中させた。

「別に気にしてないから。それよりご飯にしよ。一階に来て」
「うん……」
 姉は蒼白い肌に包まれた四肢を下手な踊りをするみたいに動かした。起き上がろうとしているのだということに気づけず、焦れたわたしはついその手を引っ張ってしまった。その拍子に捲れた袖から醜いミミズが露わになった。

 短く悲鳴を上げた姉は、恨みがましい目をわたしに向け、

「なんで、そういうことするの⁉ あたし頑張ってるじゃん! 汚いとこ見させないでよ、せっかく治りかけてきたのに、あたしが死んでもいいのっ⁉」
「……ごめん」
「どうせあんたもお母さんみたいにあたしのこと厄介だって思ってるんでしょ。隠してるつもりかもしれないけど、こっちには分かるんだからね?」
「……思ってないよ」
「はっ、どうだか。あたしなんか死んじゃえって思ってるからこういうことができるんでしょ。……ねえ、何とか言いなさいよ」
 喉元まで出かかった言葉を胃に押し戻し、
「……ご飯ここに持ってくるから」 部屋を出た。もう静寂は廊下の端に小さくなっている。階段を駆け下り、キッチンに飛び込むと長い息を吐き出した。

 姉がああなってしまったのは男のせいだった。どこにでも転がっている話だ。上っ面だけを取り繕った男の本性に気づけず籍を入れ、初めは幸福な生活を営んでいたが次第にメッキは剥がれ落ち、仮初めだったのだと気づいた頃には全てが手遅れになっている。姉はその一典型で精神を壊した。

 離婚には苦労をした。幼馴染みとの結婚だったため相手方の親も離婚に猛反対し、裁判にまでもつれ込んだ。わたしにとっても幼馴染みの男で、見目麗しく頭が切れて性格にも難のない人だったから裁判で明らかになった結婚生活には血の気が引いた。わたしも昔はその男が好きだったのだ。

 裁判の結果、相手方に相当な慰謝料を請求した上での離婚となった。だが金では姉の破れた心を修復することはできなかった。自傷行為と自殺未遂で摩耗を続ける姉に初めはみな親身だった。だが快復を見込めないことを悟ると、実の母親までもが匙を投げ、いつしかその負担はわたしの元へと巡ってきた。

 昔はいい姉だった。美人で優しく、それでいてどこか人を寄せ付けない強さを持っていた。その強さに惹かれていたわたしも確かに存在するのだ。それがたかが恋愛ごときでこうも変わってしまうとは。

「早く死なないかな……」

 わたしは暗い妄想に取り憑かれていた。ポケットに入れていたナイフを取り出す。キッチンの蛍光灯に照らされ、鈍い輝きを放っている。

 喉が鳴った。手汗がひどい。

「ご飯まだー?」

 階上から姉の声が聞こえる。
「今行くー!」

 わたしは離しかけていたナイフを握り直した。
 冷蔵庫のお茶で喉を潤しキッチンを出た。

    *

 損な人生だった。見た目のせいで周囲からの嫉妬を買い、性格のせいで割を食うことが多かった。特に妹が産まれてからはひどかった。両親もあたしに優しくあること、強くあることを望み、あたしはいつしか自分を殺すようになった。

 それでも妹はかわいかった。どこに行くにも後ろをついて回り、一挙手一投足を真似ては大輪の花のような笑顔を浮かべるのだ。この子だけは何があっても守らねばならないといつしか思うようになった。

 あたしが大学を卒業する時期だった。十六歳になった妹は恋をした。相手は家が近所の幼馴染みの男だった。見た目の得だけで人生を歩んできた、女を口説く以外に能のない、卑怯で狡猾な蛇のような男だった。

 守らねばならない。そう思った。だから先回りして彼の伴侶となった。妹にはそのことでひどく罵られたがどんな汚名もあの大輪の花を穢さないためなら甘受した。

 結婚生活は地獄だった。自ら飛び込んだ死地だったが予想を遥かに超えていた。妹への愛情だけでは耐えきれずあたしは音を上げ、実家に帰った。

「人の男をとったからバチが当たったんだよ」

 疲弊したあたしを妹は片頬だけで笑った。
 その醜悪な顔を見てあたしはようやく気がついた。あたしが守ろうとしてたものはとうの昔に喪われていたのだ。花のように笑う妹などもう存在していなかった。あたしの目の前にいるのは実の姉に一人の女として牙を剥き、いつ爆ぜるとも分からない爆弾を抱えた獰猛な獣だ。事実、彼女はあたしの部屋へ来るときはいつも牙の代わりにナイフを隠し持っていた。

 さっきまで妹がいた空白を眺め、あたしは一人ほくそ笑む。

「ご飯まだー?」
「今行くー!」

 まだ生きている。冷蔵庫のお茶には昨日毒を入れておいた。大輪の花を踏みにじった獣はあたしが殺さなければならない。
 階下で今、何かが倒れるような音が聞こえた。

 あたしは確認のためまた声を上げる。

「ご飯まだー?」


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