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期が熟した時愛を感じ、生き抜ける。

こんばんわ。
一昨日、私は、生き抜くには
愛されていることを気づく
つまり感謝できることが大切なのでは?と
私の今生きている中での、気づきを共有しました。

https://note.com/toarusekitomo/n/na4fb7f769385

 ですが思ったのです。
感謝しろと言われても、今の境遇に感謝できないよ!と思う人も
おられるかもしれない。
わかってはいるんだけれど
どうしても、怒りと憎しみが止められない。。
そんな中で葛藤やジレンマを抱えている方もいるのではないか。

いとも簡単に、私は感謝について記しているのではないか~
いや、そんなことでもないんです。

なので、今日は、私が感謝が必要だよと言えるようになった
経緯を記してみたいと
想います


私が感謝が、ほんとにできるようになったなと
想ったのは、ごく最近です。
10年ほど前でしょうか。
それまでは、私は
感謝したいけどなかなかできず、憎しみに
とらわれていました。
いろいろな経緯があって、(ここは省きますが関連記事↓こちら)
未熟な私は、感謝ができずにいたんです。それを私も苦しんでいました。

https://note.com/toarusekitomo/n/n112b824d989a

私は、父を非常に、疎んでいました。
憎んでいたといっても過言ではない。
実家に帰るのも、気が重く、
ほっとするということはなかったのでした。
でも私は、その想いを隠して
父と接していました。


 客観的にみて
確かに、納得できない、謝罪してほしいと
心は叫んでいる。でも、それを伝えることができない。
それは父の自負している
生きた歴史を否定するような気がしたからです。

それに、

頭では、育ててもらったこと、小さい時
働く母の代わりに、たくさんたくさん、
私をみてくれていたこと
そのありがたみをわかっており
私は、何をしているのだろう、感謝もできずに。。と
自分で自分が許せなくなっていました。

私はこのままずーっと親とわだかまりを
もちながら、でもそれを言えずに
年をとって死ぬのだろうか。。
そのようにも考えていました。


そんな中で、この本に出会います

小林正観著、ありがとうの神様

その本の中にはこんな言葉がでてくるのです。

この本の中に、ありがとうは、想っていなくとも、まず言ってみる、口に出してみるそれが大事。
心を籠めなくともありがとうを25000回いうとなぜか涙がでてくる。そして涙がでたあとに、ありがとうを言うとこころのこもったありがとうの
言葉がでてくる。


私は、それが本当なら、私ももうやろう、とほぼ、投げやりに
やりだすのです。

通勤途中の自転車をこぐときも、ありがとうございます
そのときは、体を鍛えるため、ジョギングをしてましたがその一歩一歩も
ありがとうございます
つぶやくわけです。
病院の中でも
患者様と話す中でもありがとうをふんだんに使用します。
ありがとうございます!と挨拶すると
患者様から
『あなたのありがとう、心がこもってないよね(笑)』
なんて鋭いご指摘をいただいたりもしました。
ですが、ありがとうを続けていく中で、
明らかに
私自身の心が、ありがとうを見つけようとする
方向性にいくわけです。

まず口からありがとうを無理やりでも出力していると
いつの間にか私の中、心がありがとうを思い出す。
そんな感触を受けました。


私は自分の発する言葉、出力を変えて、
その中で、日常の何気ない幸せを気づき
今日もお天気がよくてありがたい
今日も働けてありがたい
今日も、ごはんがおいしくてありがたい。
こんな感じで、自分に向かってつぶやいたり
皆と話すように変化しました。少しずつ、少しずつ。


私の徹底ぶりが足りなかったのかもしれませんが
このありがとう運動をしても
父への心の底からの感謝には至りませんでした。
そのあとずっとあとに、
私は、自分が希望しない部署への異動指示がだされます。
それは救急病棟でした。


 その中で、今までに経験したことがない、
たくさんの葛藤と困難に出会います。
大切なことを展開しようとしても
スタッフが耳を傾けてくれない疎外感
そもそも、周りのスタッフに
信用してもらえないつらさ
ことごとく、私の想いを、わたしの言葉を
周囲が、みてくれていない、聴いてくれていないように
私は感じた。
でもその中でもがいていった。


特に、つらかったのが、
入職して一緒に働き、はぐくんでいたつもりなのに
突然、その子に、『もうやめます』といわれる時です。
私は何をしているんだろう、何を伝えていたんだろう
育てるってどういうことなんだろう~
私は本当に悩みましたし、苦しみました。


そしてそのときもがき苦しむ中で、考えている中で
父の心配そうな、時折怒りをこらえる表情が
思い出されました。
そして申し訳なかった、、
父は、父の全力で、私を想っていたし
何よりも、
私を私にしてくれた人だったと真底気づいたのでした。
そのとき、涙がとまらなかったことを、覚えています。
そして、そんな父は、早くに他界してしまいました。
私が、真底気づいたときは、父はもう、いなかった。

ちなみに、私は20代初期に、父が夢に出てきて
不眠となり、カウンセリングを受けていたこともあります。
そのくらい、確執と憎しみにとらわれていたということです。
弱く未熟であったと今思いますが
そのときの私は、憎しみをばねに、
自立しようともしてましたし、
それが逆に、どんな困難にあっても逃げないという
ここでやると覚悟をきめることにもつながっていました。


それでも時が熟して
そして、自分の器が整ったとき
それは時に、私のように
罰があたるかのように、困難に遭遇した時に
それを乗り越えていく中で
やっとその父の様々な背景を深く理解する
ステージに立てたのだと思います。


そして、本当の感謝ができるようになったとき
私は、自分がいる意味がわかったというか
自分の存在に誇りを持てるようになったし
何よりも、自分が好きになれました。
そして
もっと早くに気づきたかったとも思うのです。
だから、
やはり感謝は命を生き抜くために
できるだけ早く
できるだけたくさんのことに
愛されていることに
気づける方がいいと言わせてください。


今日は、少し長いですが
私の本当に感謝ができるようになった経緯を
お伝えさせていただきました。
~こんな長い文章を読んでくれた
あなたに
私は深く感謝します。
あなたの命が今ここにあり
十分に今日も生きてくれてありがとう。~

そして今日も私も、
十分に命を使わせていただきました
ありがとうございます
おやすみなさい。


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