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体当たりをする要素~希望の本質について考察する~

こんばんは
今日は今までの
自分の人生を振り返って
何が要因で
確信を持ち続けて
やりぬいたか。
生きていたか。やりきれたか
そこを書いていこうと思います。

というのは、
一昨日
『私、今生きてるー!』と心から確信する
度合について
問いました。何パーセントですか?と問いました。

そのパーセンテージがあがる根拠は
目に見える幸せ、不幸せなどの達成度合いとは違って
ただひたすらに
今ある命の可能性を最大限生かして
まぎれもなく必ずくる終わり(死)に向かい
体当たりすること
と述べました

https://note.com/toarusekitomo/n/n264f10238839


ですが、そういわれても
死に向かって体当たりする、、抽象的で大きな概念です。
そこをどう日常に落とし込むか。
その一つを自分の人生から、記させてください。




1)絶望、却下を言い渡され続け、それだからこそ凝縮し、体当たりしている(私の場合)

 私は、自分の生きる目標、
かっこよくいったら使命(何のために命を使うか)
そこに対する確信度それは100パーセントです。
それは、今時点迷いはないです。

小学校4年から3年に、ふと思った疑問
『なぜ、私は学校にも行けてご飯も食べれるのに
違う国では、ごみを拾って、学校にもいけず、
食べれない子がいるんだろう』
→そこから
『看護を通して、必要な人に
必要なケアを届ける人になりたい』
一人の小さな何もできない子供が
真面目に本当に考えてました
私はできるそう思ってました。


 ~ここまでは、よかった。
でもここからがいばらの道でした。~
その私なりの大切な夢、目標を
両親に伝えたときその反応、返答が
まさにこの言葉『玉砕』だったのです。

 父はできないことはできない、
無理なことは無理
はっきりと
言う人だった。
~今のお前の器では難しい~
~現実的にそんなことをして病気になったら
誰が面倒見るんだ、わかってるのか
様々なことを考えなさい~
~そんな生活の仕方ではその夢はかなわない~
ものの見事に
いつもいつも、玉砕だった。


 そのたびに私は、
じゃどうすれば、自分で自分の道を
切り開けるか
様々考え、自立できる方法を考えあぐね
行動した。
幼少期私はいつもおっとりしていて、
いじめられっ子で
物静かだったけど
静かに内に秘めて負けず嫌いだった。
やめる、あきらめるという選択をするほうでは
なかった。
その特性を見事に、見抜いていたのかもしれません。

間違いないのは
自らの夢、目標を語ると
冷静に却下され続ける中で
それでも持ち続け
時に喧嘩もしながら
葛藤し
悔し涙も流し
その中で、私のその夢目標は
淡い希望、夢から
確固たる目標、執念にも似た到達点へと
凝縮された。

凝縮されたからこそ
体当たりし続けられる。
誰に何と言われようとも
私は、やらなければいけないことがある。
何度も無理かもしれないそう思っても
また立ち上がって
またやり抜くそれが
私の場合の
命の体当たりです。


2)父が伝えたかった本質(後の考察)

 ~できないものはできないんだ。。
無理なものは無理というしかない。
冷静に見ても無理だから無理っていうんだ
そんなことでは、お前の夢などはかなわない~
そんなこと淡々と言われて
思い知る現実。
ときに激しく父を憎み、抗った。
ですが今はこう考えます。

 人は簡単に、夢とか希望とか言う。
でも、ある程度自分が出来上がったら
現実というものを知る必要がある
それもなるたけ早い時期に。
でないとその夢、希望を実現する前に
生き抜けない。やり抜けない。
つまりその時点での希望はまやかしであり
本当の希望ではないということ。

希望とは何か。
それは、その希望がかなわない
その希望は、到底、自らでは届かない
今その希望を叶える希望的材料がない。
その現実を思い知って
絶望を感じて
それでも立ち上がったとき
それが本当の希望。

たぶんそれを父は伝えてくれた。


 父の中には、様々な思惑もあったでしょう
長女としての私にどうしても家にいてもらいたい。
遠くに行って病気にでもなったら。。
でも何よりも
多分おそらく父が私に培いたい、伝えたい
そう思ったのが
上記の
『本当の希望』

 憎まれる、嫌われる承知で
いつも苦言を呈して
いつも冷静に、できない、だめだ、、を
言い続ける。
それは決して快いものではなかったと思うのです
それでもいい続けた
私が、耐えられないかもしれないと
思いつつでもできうるだろうというぎりぎりのところで。

それは、
本当の希望を培ってほしかったから。
無理だ、絶望がただよっている。
それにもかかわらず、その希望を現実にする
作り出す力をはぐくんでほしい
生き抜く力を持ってほしい
そう深く思い、そして私に接してくれたと。
今自らの人生を顧みると、
そのように、感じざるを得ないのでした。


3)悲しみ、くやしさ、絶望それが、希望の本質へ。

 現実を突きつけられるということが人生にはあります
それが私の場合のように
容赦なく他者から伝えられる
無理なことは無理。
ダメなことはダメ。
そう伝えられること
それ、非常に大切な貴重なことです。

時に直接言われるわけではなく
想定外の思いもしなかった失敗、挫折
そんな現実で思い知ることもあるでしょう
そのときの悲しみ、くやしさ、絶望の渦の中にいるあなたへ
~あえて言わせてほしいです~
おめでとうございます。
あなたは、
確かに今、
あなたの夢を、目標を凝縮させて
確固たる志へと変化させています。

あなたは、
確かに今
その悲しみ、くやしさ、絶望の中で
心の瞳を深くして洞察力が深くなり
あなたはより、人の気持ちをわかろうとして、
そして、あなたの器は大きくなっている。

 その絶望を見据えて
『今、未だ無い』
そこを深く自格したうえで
それにもかかわらず
未来を作り上げるそう思ったとき
それが希望の本質に近づいたということ。
それがあなたの本当の希望です。

それは集団でもそう。
何らかの目的をもってチーム、組織、会社が動いている
そこには表現は違っても
希望を掲げているビジョンがあるでしょう
ですが、
それに対して冷静に、客観視して
どれだけ未だ無いか、かけ離れているか
それを思い知り
それでも立ち上がった時、そのチームが本当に稼働する。

そして人類もそうなのです。
人類は今、本当の希望を持っているのか
その希望は逃げではないか。
様々な命の尊厳に反するものたちの存在
 戦争、紛争、
 原爆
 公害
その現実を見据えているでしょうか。
今本当に現実を見据えて
いまだない、できていないこと、
滅びてしまう危機感を感じて
絶望にぶちあたる
そしてそれでも
私たちが希望を持った時が
つながったときが、
本当の希望。

だからこそ、まずできうる
自分自身の本当の希望を
培って
自分の生命と命を発たせていく。
体当たりのトリガーを引けたらと。

絶望を現実をしっかり見据えて
それにもかかわらず
笑顔でしなやかに
楽しく
やっていこうと深く決めたとき
それが本当の希望。

~今日は、私の
昔の厳しい体当たりの歴史を
述べました。
おそらく、私自身が、
楽天的で、そして怠けてしまう傾向があること
それが引き寄せたものであり
私個人の体当たりであることを
ご了承していただけたら幸いです~

これは私個人の体当たりなので
やや、辛口の、厳しいもののように
感じます。
ですが
希望を凝縮させるトリガーは
実は
自分があまり希望しない現実
苦しみ、悲しみ、くやしさ
そこに潜んでいることが多い。
成長するときは実は、
今自らに、高くそびえたつ壁を
必死で超えようと、体当たりしているとき。

そこを伝えたく、記しました。
希望というところに新たな視点を。
そして本質に迫った、希望を
目標を、志を
あなたが、持ち続け
楽しく明るく体当たりできうることを祈って
眠ろうと思います

今日の命にありがとうございます
そしておやすみなさいませ。














ですが
体当たりするには
体当たりするなりの
トリガーがあると思う
それが何なのか。
体当たりすることができるということは
体当たりする対象
体当たりする目的、などがあり
そこにゆるぎない情熱、意思、決意というもの
つまり、ゆるぎない確信をもっているから
そう想うのです。
だから、ゆるぎない何らかに対する確信が
無我夢中の体当たりを引き起こし
その中で
今ここに生きている!という感動を感じ
そこで自らの命の確信度が深まる
そしてまた、体当たりして
さらにますまます、生命が呼び覚まされて
生きる力が湧いてくる
この体当たりの好循環三昧の人生。
それははた目から見たら
その人その人の基準もあるので
苦しそう、大変そう、展開がめまぐるしい。。
などと感じるかもしれませんが、
その人からみたら
ただただ、味わい深く、瞬間瞬間が
感慨深い。
そこに近づくための要素、具体的方法が
実は、
日常の心がけでできることがある。
そう思ったので記します。







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