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死すとも、愛を貫き通しそしてその命が今語り継がれる

こんにちは、命と生命と生きる、生き抜くことを
考え
そして死について考えるとある看護師です。
 昨日
金子みすゞ記念館の月日貝という詩の
エピソード
名前の一文字一文字が意味があること
そちらについて
述べました。

https://note.com/toarusekitomo/n/n53486b4aff89

本日はその金子みすゞ館で
実際に、その金子みすゞと同じ地区萩で
生まれ育ち、
彼女の生い立ちなどの舞台の脚本などもしている

詩人 あわさんごさんからのいただいたお話を。


 


1)南京玉そのノートにつづられた宝物。

 金子みすゞは、まなむすめ・ふさえさん(ふーちゃん)の
おさない時のかたことのことばを「南京玉」と
名付けた手帳に書きとめていました。
母と子の大切な時間がうかび上がってきます。
南京玉って、七色なのか色とりどりの、
飾り玉のようなものなのでしょう。

南京玉

その色とりどりの小さな宝物、それと、娘さんの日々の
語る一言、言葉が同じように
小さいけれどかけがえのない一つ一つに
思えたのでしょう。
 こちらが、みすゞさんが書いた前書きの言葉だそうです。

「なんきんだまは、七色だ、一つ一つが愛らしい。

尊いものではないけれど、それを糸につなぐのは、私にはたのしい。

この子の言葉もそのやうに、一つ一つが愛らしい。」

https://xn--n8ja1ax8hx09vzyhxtan6s.club/

2)みすゞさんの人生


 金子みすゞさんの人生は、たくさんのいろいろな壁があった
その時代だからこその、選べなかった
周囲、親に勧められての、結婚。
結婚生活は決して
支え支えあう関係性ではなかったようです。

詳しいことは、ここでは敢えて
大切な生きざま、命を燃焼したみすゞさんの人生が、
かすんでしまうようで書かないことにします。

あえて、一つ、
みすゞさんが、
必死で生きていた、
昭和3年、みすゞさんは健康状態が思わしくなく、
かなり長い間床についた時期があった。
夫との関係もすでに冷たいものになっていた。
この年の『燭台』『愛誦』の11月号にそれぞれ
「日の光」と「七夕のころ」を発表して「みすゞ」の作品発表は終止符を打つのですが
その時記した『日の光』そちらを。

日の光

おてんと様のお使ひが

揃つて空をたちました。

みちで出逢つたみなみ風、

(何しに、どこへ。)とききました。

一人は答へていひました。

(この「明るさ」を地に撒くの、

みんながお仕事できるやう。)


一人はさもさも嬉しさう。

(私はお花を咲かせるの、

世界をたのしくするために。)



一人はやさしく、おとなしく、

(私は清いたましひの、

のぼる反り橋かけるのよ。)


残つた一人はさみしさう。

(私は「影」をつくるため、

やつぱり一しよにまゐります。)

金子みすゞ―詩が「命の灯」だったみすゞの短き生涯 (5ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

  様々な葛藤とご苦労があったことで
その中で離婚を決意するのですが
みすゞさんには大切な娘さん
ふーちゃんがおられた
その時代
親として親権が入るのは
常に父親のほう。それがどんな事情であれ

だからみすゞさんは
御家族へ母、夫、ご兄弟である弟へ
3通の遺書を残して
計画的におそらく
服毒自殺をされました。
そして死をもって

娘さんふーちゃんを
自分の母に愛情深く
手元で育ててもらうために。
今自分ができる意思、意志、遺志
そちらを
みすゞさんの存在をかけて
死をかけて
貫いたのでした。


3)娘ふーちゃんが抱いた想いと気づいた母の愛

 3歳のまだ、判断もできないころに
母を自死という形で亡くされた
娘ふーちゃんさんは
母のお墓を訪れることを長らくできなかったそうです。
~母の想いがわからない
愛されていることがわからなかった~

その当時
女性は、自分の心の底から思うことを
意思表示することも、実行することも
ままならなかった、、
その中で
自死をする人もおられたとのことです
~その当時母である女性が自死を
するとしたら
子供も引き連れて心中すること
残された子供を思うと、不憫だからこそ
死の向こう側でも一緒に生きようと
一緒に道連れとなることが多かったとのこと~

そんな時代背景の中
みすゞさんは自らのみ死を選んだ。。。


 上記もあって
様々なこともあり
ふーちゃんは
愛されていなかったのでは、、
そんなふうに思ってしまったのかもしれません。

後年になり『南京玉』の出版に際して
きちんと読み返したことから
みすゞさんの愛がふさえさんへと伝わったそうで、
ふーちゃんは、
その気づきがあってやっと
みすゞさんのお墓参りをすることができたんだそうです。
ふーちゃんさんがそれができたのが70歳をすぎてから。。

「珍しいことですよね、自分が70才を過ぎて、初めて母と娘になるってことは、ちょっとないでしょう。」

(別冊太陽 「生誕100周年記念金子みすゞ」134ページより)

ふーちゃんさんの言葉

 ふうちゃんが
みすゞさんの愛を知ったのが
70歳をすぎてから。。
それはきっと
みすゞさんがきっと
ふうちゃんに
気づかれないように、、
もしかしたら
母である自分を恨んでもいいから
ふうちゃんが、
ぞんぶんに自分の人生を
生きてもらえるように
ひっそりと、
野に咲く花のように
愛を
送ったからなのかもしれません。


でも確かに、愛はそこにあり
南京玉と名付けられた手帳には
ふうちゃんとみすゞさんの
生きた証がそこにあり
ふうちゃんと、みすゞさんは
きっと今頃
あの世で、空の上で
あって、一緒に
今頃お話してるのでしょうか。。

あわさんごさんのお話より~
「南京玉と夢の糸」 作成者:あわさんご (spotify.com)


4)南京玉と夢の糸

 みすゞさんは自分から生命を絶つ
死を選びました。
でもそのみすゞさんの命は
生きた証は引き継がれてます。

みすゞさんと同じ山口県に生まれ育った
あわさんごさん
あわさんごさんがそのみすゞさんと
娘さんのふーちゃんを
想い、愛し
つづった脚本が2021年、
舞台で、産声をあげて、表現された。
~南京玉と夢の糸~

あわさんごさんの脚本された劇~南京玉と夢の糸~

~それはまさに、みすゞさんと
その娘ふーちゃんの
命、生きた証が引き継がれ
きっとその舞台をみた
誰かの心に引き継がれ
そして語り継がれる~

その地に生まれた御縁がある
その地で生まれ育ったのちの
皆が、
みすゞさんの命を引き継いでます。


 みすゞさんにとって一人で死ぬということが
何を示したのか
それは私個人の考えとしては
死をもって、自らの存在の理由
そして愛を、
命を懸けて表現したんだと。

それくらい
みすゞさんの娘さんふーちゃんへの想いは
静かだけど深く、強く。。
だからこそ
周囲の心中という、状況にぶれることなく
大切なふうちゃんというわが子の存在を
大切な母に預けて育てていただく
親権を確かに獲得するために
苦しみ
考え葛藤し
死ぬことを選択した。。


 この命の生命の終わりに
誰が、口出しできましょうか。。。
死を選ぶことが
この当時、
その選択を、その生命燃焼の仕方を
誰も、私はここに意見することはできないと
思っています。
死とは何か、生きるとは何か
それを身をもって
愛とともに、みすゞさんは私に
訴えかけている気がしています。

そしてこれだけはいえることがあって、、
これからも
みすゞさんあなたの愛と
あなたの生きた証は
あなたの南京玉のような
言の葉によって
皆に引き継がれている
そう
それはみすゞさんだけでなく
あなたも、私も。。
それぞれの、生きた証が
周囲に波紋を呼んでいる
だれかがそっと観てくれている
だれかがそっと祈ってくれている
だから、
みすゞさんのように、
死さえ、いとわない。。そんな
死に物狂いの覚悟で
何かに取り組んだ時
その生きた証、その想いは
後世に
ずっと先に語り継がれ
愛されるのかもしれません。


 あなたの命も私の命も
その昔、大昔
みすゞさんのように
それぞれのご先祖様が必至で
次の世代を子を想い守りぬき
生きて
時に、死も止む無しという覚悟で
命を燃焼したバトンの中に
あります。
だから、それぞれの選択
それぞれの想いはあるかもしれないけれど
やっぱり私は
皆が、生きてほしいし生き抜いてくれること
それを全力で、応援して
それに全力でうれしく感じたいです。

~今日はちょっと長くなりました。。
でも、あわさんごさんがしてくれた
大切な金子みすゞさんの命のお話
そこから、今命に向かう看護師として
想ったこと、それを記しました
あなたの命にありがとう
よき夜をお過ごしください。~



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