【古器物の話③】「倣古」とは?
原稿に追われ久々の投稿となってしまいました。
先日、黒川古文化研究所の秋季展「文雅の典範 清朝盛世の書画」を観に行ってきました。
明末の董其昌を端緒に、その理論と作風に基づく清朝盛世の書画がどのような展開を見せたのかに注目した、黒川では久しぶりとなる中国書画の特展です。
書と絵画の双方から切り込む視点と時代背景へのたしかな理解によって自身の研究成果をコンパクトにまとめた点に、担当の飛田研究員の手腕が見えました。研究図録の総説も読みごたえのある内容で、今後の清朝書画の展示のお手本となっていくでしょう。
個人的にも、清朝の古器物への関心をもっていますので、同時代の文人たちの動向を学びつつ、色々と考えさせられました。
そこで今回は、予定していた清朝の古器物学の話をする前に、いったん「倣古」とは何か?というテーマを挟みたいと思います。
さて、前回は宋の古器物学の話をしました。
ざっくりまとめると、朝廷で使用する祭器を正しくつくるべく宋の士大夫たちが手本とした「古器物」とは、遺跡や墓から掘り出した紛れもない夏・殷・周の時代につくられた器を指す、という話でしたね。
その後、南宋時代や元代にも古銅器に学んで祭器をつくろうとする動きはありましたが、靖康の変(1126-1127)によって宋皇室所蔵の古銅器が金に持ち出され散逸してしまったダメージは大きく、宋の『博古図』を手本とするしかありませんでした。
南宋の経済・文化の中心であった江南地域から出土した青銅器を見るに、図譜を参考につくられたと思しき南宋青銅器は殷代~秦漢時代の古銅器と見まがう外見をしています。
古銅器の実物をまったく見ずにつくれるクオリティではないような気もしますが、『博古図』の記録の質に基づけば、三代の古銅器を復元することも可能だったかもしれません。
しかし、そのように三代の器そっくりにつくられた青銅器は、はたして宋の士大夫たちが三代の古銅器を範としてつくり出した青銅の祭器と同類とみなして良いでしょうか?
ここで、「倣古」とは何か?が問題となるわけです。
「倣古」のはじまり
【古器物の話②】でも紹介した論文「中国古銅器の蒐集と倣古・偽古」のなかで、「倣古」とは「今の時代に三代の遺風を再現しようとする思想」であると紹介しました。
この定義は、台湾大学芸術史研究所の陳芳妹先生の言葉を借りて日本語にしたものなのですが、
その定義にはひとつの根拠があります。
それは、政和盨という宋の政和七年(1117)につくられた器です。
その銘文「隹政龢丁酉十二月甲子、皇帝肇仿禮器作盨、以祀太一、其萬年永保用」には、皇帝が「礼器を仿して」盨を作ったと記されています。
その意味するところは、三代の古銅器を仿して宋の礼器を製作したということでしょう。
これが「古器物を仿する」(=「仿古器物」)あるいは「古銅器を仿する」(=仿古銅器)という思想のはじまりです。
「仿」は「よく似る」「ならう」を意味する字で、本来は別字なのですが、ほぼ同じ意味で常用漢字の「倣」を使うことが多いです。
つまり、古器物の世界で用いられる「倣古」とは、三代の古銅器(あるいは古器物)にならって礼器をつくることを意味するわけです。
「倣古」の目的は礼器を正しくつくり、礼制を復原することにあるので、ただそっくりそのままにつくるのではなく、背景にある思想を体現することが重要になります。
前回の記事で紹介した『考古図』では、それを「三代の遺風を追う」とあらわしており、わたしの「倣古」の定義ではその言葉を借りています。
ちなみに、「考古」という語も「仿古」と同じ用法で宋の青銅器の銘文に登場しています。
明の倣古銅器と文房趣味
宋の「倣古」の精神は明の時代に引きつがれ、宣宗(在位1425-1435)の時代に国家的な倣古銅器の生産が行われたことは、いわゆる「宣徳銅器」の存在によって知られています。
ただし、宣徳銅器は呂震等撰『宣徳帝彜譜』に載る目録によって鼎や鬲をはじめとする多くの礼器がつくられたことがわかるのみで、実物として世に残るものには後世の模倣作が多いと言われており、実態はよくわかりません。
むしろ明代には、鼎形の香炉や尊形の花瓶などの礼器の形を借りた五具足や三具足、あるいは漢代・唐代の器物やその模様を写しとった文房具が盛んにつくられており、礼制を追求する学問としてよりも、文人たちの間に近世・近代人らしい懐古趣味・骨董趣味として古銅器風の青銅器が広まりました。
そのような文房趣味は、民国以降の倣古銅器や日本の唐物文化に影響を及ぼした点で一定の評価が与えられてはいますが、やはり宋の「倣古」とはまったく異なる思想です。
明末の混乱と「倣古」の精神
明代末期、王朝が政治的・経済的に混乱する一方で、肥沃な江南諸都市に人口が集中し、新興富裕層の台頭によって知と文化が集積されました。
江蘇省の東林書院を中心に興った東林学派のなかから「古学復興」を標榜する「応社」がつくられ、全国的組織である「復社」へと発展しました。その同人であった顧炎武(1613-1682)から、元明の観念哲学を排除し経書を重んじる「考証学」がはじまります。
金石文を趣味ではなく経書批判の史料として蒐集し考証する「金石学」もここから興りました。
乾隆帝(在位 1735-1795)の時代には宮室に多くの青銅器や鏡が集められ、「彝器の学」の復興を目指して『西清古鑑』が編纂されましたが、収録された青銅器はなんと約1/3が倣古品や偽古品であると言われています。
大編纂事業の裏で三代や宋代の器にならって多くの青銅器がつくられたと思われますが、それらが三代の器として掲載されているんですね。
「古学復興」「実事求是」を標榜した明末清初の学者たちは、青銅器をつくってこそいませんが、その学問に臨む姿勢には「倣古」の精神が感じられます。
一方、乾隆帝の時代には多くの青銅器がつくられましたが、それらは三代の器と偽られたもので、後の学者たちによって「倣」三代あるいは「倣」宋代と見破られたにすぎません。
南宋の青銅器しかり、乾隆帝時代の青銅器しかり、三代の器に形や紋様を似せてつくった青銅器は、たとえ見た目がそっくりであったとしても、そこに「倣古」の精神はありません。
( 清朝の古銅器蒐集と青銅器づくりが何を目的とし、その後どのような展開を見せたかについては、あらためて清朝の古器物学の回にまとめます。)
ここで話を戻すと、冒頭に紹介した展観の主役・董其昌(1555-1636)も、顧炎武と同じく明末に活躍した人物です。彼は明に官僚として仕えながら、文人・収蔵家として台頭し、書画の理論化を推し進めました。
董其昌の理論は、中国画を南宗・北宗に区分したうえで南宗画を尚ぶ「南北二宗論」がよく知られていますが、あらゆる古典の長所を集めて既存の文人画を変革しようとしたもうひとつの理論に「集諸家大成論」があります。
飛田研究員の言葉を借りれば、董其昌は「古典の鑑賞と学習をしながら」、「厳密な模倣でなく、自然な運筆時における古典との共鳴」を目指し、彼が書画の古典を学ぶ目的は「科学的探求というより自らの精神をよどみなく開放するよすがを得ること」にあったということです(研究図録シリーズ11『文雅の典範 清朝盛世の書画』総説より)。
文人画の世界の「倣古」は「倣古書画」ではありますが、どことなく宋の「倣古(銅器)」と通じるものを感じますね。
考証学の影響は書の世界にも及び、金石文の書風をとりいれた書の制作も行われています。金石学者のなかには書をなす文人もいますので、当然といえば当然です。
たとえば、『文雅の典範 清朝盛世の書画』でも紹介されている朱彝尊という書家は、顧炎武の著書『金石文字記』(巻一)において丹徒県焦山寺が蔵する鼎の銘文を考証しています。
古器物の歴史を学ぶには、書画の展開や共通する時代背景にも目を向ける必要がありそうです。
黒川古文化研究所秋季展「文雅の典範 清朝盛世の書画」は11月24日までです。お見逃しなく。
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