「幸せになりたい」それって、悪いことなの?キッツイ同調圧力からの脱却!
「幸せになって何が悪いの?」って、シラフで言うと恥ずかしくて…。
「自分が楽しく生きていたい!」って、心底言うとヤバいやつって思われる…。
もしかしたら私だけの被害妄想かもしれないけれど
少なくともここ数年の多様性なんていう
「多面的な視座」が公に設けられるまでは
そんな風潮って強くあったと思います。
だから、恥ずかしい人にならないために、とか
そうやって思われないように、とか
自分を守る為に知らず知らずのうちに身についていたことは
ヤバいやつ認定されない為の「処世術」みたいなものです。
こうして多様性が認められつつある、そんな雰囲気こそ漂い始めた
今日この頃では有りますが、いまだこの世の中において、
兎角、この国の中では自分の幸せを主張することには、
一定のナーバスな評価が付き纏っているように感じます。
(あとは交換条件が提示されたり。)
ひとつ誤解なきようお伝えしたいことは
私はこの国が好きです。
自分の国の歴史に興味を持っているし
素晴らしい文化と
類稀なる人間力のある国だと思っています。
愛国心を持っていると、言います。
しかし、その一方でこの国が抱えている問題は
なんだかとても「闇深い」とも思っています。
この国の同調圧力は、キツイ。
ヤバい奴風情は、良いんです。
言っても、その場しのぎだったりするもんです。
羽目を外す、くらいの。
あと面白い!とか、愉快な娯楽要素の強いヤバい奴は認知されやすいと思います。
動画サイトが人気が出るのもそういう所にあるのではないかな、と思います。
でも、小難しいような持論、哲学を語り出して
我が道を生きだすタイプのヤバい奴は
なかなか受け入れられにくいです。
一気にマイノリティです。
ごく一般的ではない、という理由から。
前に倣え、右に倣え、回れ右!
一方からの正解が用意された道徳という授業。
自由な心を育むべき、幼年期にも
自分と最も向き合うべき、少年期にも
団体行動の美しさを
統一性があることの価値を教えられてきたのですから。
我々はそうやって育ってきたんです。
受け入れられないのも仕方がないのです。
他と同調することで得る価値みたいな物が根強く教育されていますから。
そして厄介な事に他と違うものを受け入れられない事と同じくして
「他に受け入れられない」という側面が自分に降りかかります。
それが、不安要素となっていきます。
実は、そんな他人目線の生き方の方こそが、問題ではないかと思います。
ここでも他者目線を重視するのならば
「受け入れてくれない誰かや、社会が悪い」となります。
でも本来そういう状況を「不安だ」と感じる自分の目線にこそ注目すべきです。
いい年だし、とか。
子供が優先でしょ、とか。
人を差し置いて、自分が自分がって思考ってどうなの、とか。
普通じゃないよね、とか。
他者や社会から「受け入れられないかもしれない」という、目に見えない不安感。
おおよそ自分の中に芽生える不安感は「他者目線に反する行動」の元に発生すること、
人目とか協調性という名の鎖に随分と締め付けられていると気づき始めました。
「誰かに受け入れられない事」を「受け入れられないから」といって
「不安になって」それが嫌だからと「自分の気持ちに嘘をつくのか」
???
私って誰のために、生きてるんだろう。
私って何のために、生きてるんだろう。
それが「幸せに生きたいんだ!」と認めて動き始めた
私の次の「気付き」でした。