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本当は変人になりたかった!と思っていた、本当の私


「幸せになるんだ!」という事を決意して、人目とか協調性という類の同調圧力からの本当の意味での脱却を目指し始めた私、あの頃34歳とか35歳でした。

ずっと、自分は意思を持って生きてるいるつもりではいたのですが、やはり現実の満足感とには大きな隔たりがあり、違和感に苦しみ続けていた時間って、結構長かったと思います。

「本当の意味で自分の本心と向き合う」
そういう作業がドカンと、抜けていたように思います。

子育て中で、当時ワンオペ状態でした。
更には自分で生きていこう!!と思って
自分でデザインしたものを売るような
ちょっとした物販を始めていた事もあり、時間を作ることが物理的にムリ‼︎とかも思っていました。

社会の流れ、周囲の声や目、
こうでなければならないと言う自分の声に
過去のトラウマ。

自身を取り巻く様々なものを、全て理由にして本心と向き合う時間を作る事が出来ていませんでした。

しっかりしなければならない。
強くいなければならない。
子供達の生活を守らなければならない。
トラウマなんて、ない。
私は強いんだ。
そんな風に言い聞かせて生きていたように感じます。

それでもあの頃の私は、自分でデザインしたもの売っちゃったりして、ハタから見たらそれなりに自由な雰囲気こそあったのではないか、と思います。

過去の自分の全てを否定する事はありませんが、あの頃はただ「そういう風な私」にしていただけの事です。
そんな自分でいれば、どうにか立っていられたのです。
自分の苦しさとか虚しさとか痛みとか、自分で向き合う勇気がなかったのです。
だから、「そんな風」な自分の姿が必要でした。

私みたいな生き方をしてきた人間が
「改めまして、幸せになろう!」となると
それは簡単ではありません。

なぜなら幸せになるには、まず
「産みの苦しみ」みたいなところからがスタートするからです。

自分の本心と向き合うというのは
日々の流れの中で見失ってしまった自分自身を見つけ出す作業です。

前にあげたような様々な理由を盾に隠れている本当の自分を見つけなければいけません。

それは今「私」として生きている自分とは
実は正反対の「私」がいる事だってあります。

こうだ、と思ってやっていても
本当に望んでいるところは逆の事があるのです。

それってすごいズレが生じていると言う事です。

そこを認める事は場合によっては、情けなさや惨めったらしさが生じるかもしれません。
でも、幸せになるためには避けて通れない事だと、振り返ってつくづく思います。

人間の心模様は一言では言い表せないし、場合によってはどちらにも転ぶような気持ちがある事も事実だと思います。

それでも、自分の中にある本当の声、あるいはもう一つの声に耳を傾け始めると、視座が増え、視野が広がります。

だんだんと、何か違う…と思っていた違和感の正体が見え隠れし始めるのです。

じゃあ、いつもなら「当然こっち!」の選択をするんだけど、もしかしたら、「実はこっち?」と、可能性を見出しながら選択していくと、全然違う自分の思いがどんどん出てきます。

例えば私が思っていた
「強くいなければならない」
「私は強い」
という考えに対し
実のところ私は本当は
「強くなりたくない」
「私は弱い」
だったことを受け入れるしかないと真実を思い知りました。
更に深掘りすると実は私はこの後者のままの姿で生きていたい、と言うことに気付きました。

しかしそうさせなかったのはなんなのかと半ば半べそでなんだかツラいなと思いながら追究していくと、過去のトラウマが原因だと分かりました。

(本当に息苦しさの中にあるものを探る作業は、辛かった自分を掘り返すこともあるのでホントに悲しかったりもします。)

あとは「ちゃんとしてる」か「してないか」という世間の目などを考えると「どうしようもない母ちゃんじゃダメだ」って、「私がダメ認定されると、子供達もかわいそうじゃん」とか「他人目線のしがらみ」みたいなものもにも知らず知らずのうちに影響されていたと思います。勝手に…ですが。

以前にもあげたように
どうしてもそういう思考になりがちな教育を漏れず私も受けてきています。

しかし実は私そういうところからの脱却を何度も試みていた過去があります。

例えば、中2でたばこ、髪を染めて、ピアスを開けて…みたいな「はみ出す事で自己主張」、それによって同級生や学校という「つまらない同調圧力」からの脱却を試みたのですが、その度に痛い目を見ただけでした。

若さゆえ、もあるかもしれません。

やはりそれでは本当の意味での違和感が解消される事はありませんでした。

そして結局はそういう悪い世界にはまた同じようなはみ出し者同士の同調圧力が発生しているのも事実です。下手したら、もっと強く。

そうすると結局は、幼い頃から埋め込められた「そういう思考」はどこへ行っても顔を出すことになるのです。

それから何年もの間、もがき、苦しみ、違和感と共に生き、様々な経験をして、母になり、自らの命に変えてでも守りたいものができると「そういう思考」はますます強い存在感を出してきました。

「弱い(ちゃんとしてない)=他者から攻撃される(白い目で見られる)=負け(マイノリティ)=不幸」
みたいな…一種の思い込みよる単純な公式の元、私の中には「決して他者に負けてはならない、さもなくば不幸になる」という、根が張り巡らされていたのです。
広く、深く、太く。

本心とは真逆です。
だからそれでは、苦しくて当然です。
そして広く、深く、太く張り巡らされた根を取り除く作業は根気がいります。
けれどそれらの「産みの苦しみ」から解放されてくると視界はどんどん拓けてきました。

さて、突然ですが今日のタイトルに触れます。

私、本当はすごく漠然となんですけど
変人として生きていたかったんです。

いわゆる一般的に言えば「変人」みたいな程度です。
まぁ「普通」ではないタイプの人みたいな。

もっとアーティスティックな事して
好きな服を着て、好きな髪型をして
音楽を愛して、歌って、踊って、酒を飲んで、
ちょっと変わってるねー、でも楽しい‼︎
みたいな生き方をしたかった。

そういう気持ちすら
見て見ぬふり、忘れたふりをして
「普通の人」として
生きていこうとしていたら、そりゃ
違和感の嵐です。
やってられないですよね。

それが自分の本音と向き合う事を重ねた
今では、ちょっと…
「変」な生き方をできているんです。

憧れの「変人ライフ」を楽しんでいるのが
今の私なのです。

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