夏炉冬扇 #8
殺意だ。
殺意を抱かれたのは、生まれて初めてかもしれない。
影が私の喉仏に向けて腕を伸ばしてくる。私は咄嗟に後退り、首の手前数センチのところで、相手の爪が空を切った。だが、私は水溜まりに足を取られて、身体のバランスを崩してしまった。硬い岩盤でできた詩碑に背中を強打して、一瞬意識が遠のく。その機会を逃さず、もう片方の腕がすかさず攻めてきて、ぐいと胸倉をつかまれた。成す術もなく上半身を海老反りにされる。
一瞬目眩がして、目の中に入った雨がツンと痛んだ。
「何…すんの…!」
狭くなった気道から絞り出すように、私は言った。いきなり襲いかかるなんて、正気の沙汰じゃない。一体私が何をしたっていうのだろうか。この影の人物と私はどんな関係があるというのか。
紺色の空を響かせるように、遠雷が聞こえてくる。雨脚は弱まるどころが増すばかりで、鼻や口に侵入する雨粒に呼吸が苦しくなってきた。
私は影の左腕を必死に掴んだ。影はブルブルと震わせながら引き剥がそうと藻掻いている。私の腕力と、影の腕力が拮抗しているのか、お互いが力を込めても両者ともに動けなかった。二人を濡らす雨の音に交じって、「はあ、はあ」という辛そうな吐息が私の髪の毛にかかるのを感じた。
思い切って前を見据えると、その人物の顔が薄暗がりに浮かんでいた。狂うように燃えて、震えて、それでいて懐かしさを伴うような、そんな顔立ちに私は驚きを隠せなかった。
「女…の子?」
さほど私と年齢の変わらない女の子が、私に殺意を抱いて襲いかかった。そんな事実が呑み込めるはずもなく、だんだんと私の肩の力が抜けていくのを感じた。私がだらんと腕を垂らすと、ずぶ濡れなその子もガクンと膝を折って、私の靴の先にしゃがみこんだ。
この子、私を殺すことは出来ないんだ。
襟首を掴んだところまではいったものの、彼女はそれ以上のアクションを躊躇い、そのまま私とともに詩碑の前で雨に打たれている。異様な光景なのだけど、うまく形容できそうもない。頭の中で疑問符が夕立のように降り注いでいる。
コートのフードを目深に被った女の子は、凍えるように全身を震わせながら私と向かい合わせに蹲っている。彼女と私との境界に傘はなかった。ただ秋雨が私たちを包み、話しかけているだけだった。もう彼女は襲ってはこなかった。彼女が身体を震わせていたからだろうか、私の彼女に対する怒りはすでに洗い流されていた。なぜか私は、名前や理由すら口に出さない彼女が、とても深刻な状態に置かれている気がしてならなかった。
「ごめんなさい…あたし…」
ちょっとハスキーな、細い声。この懐かしさは何なんだろうと、こんな状況でも冷静に考えている自分が奇妙だった。ふだん小説ばかり書いているからか、何でもかんでも一歩引いた眼で現実を見る癖がついたのかもしれない。
「えっと…」
襲った理由は何なのか、このコスモスは彼女のものなのか。私が二の句を告げないでいると、文藝図書館の表玄関から狼狽えた声がした。里子さんだ。
「倒れる音がしたけど、どうかしたの!? まあ、あなたたち、傘も差さないで!」
当たり前の話だが、里子さんは傘を持ってこちらに近づいてくる。対してこちらは、ずぶ濡れレイニーガールズだ。私が弁解しようとしたとき、里子さんに気づいた女の子がぱっと顔を上げて叫んだ。
「ごめんなさい!」
彼女は一瞬だけ私の腰に手を当てると、駆け足でその場を去っていった。呆気に取られた里子さんと、もっと状況の理解が出来ていない私とが後に残された。腕時計はちょうど午後四時を指していた。雨脚は落ち着いて、ひたすら単調なリズムで私の肩を叩いている。彼女を追いかけて事情を問い正そうという気力は、冷たい霧のなかに地面へと吸い込まれていった。
「あの子、誰…?」
里子さんの言葉には答えず、私は濡れた指で、腰のポケットに触れた。そこには一枚の小さな紙片が入っていた。目尻を擦って暗がりで目を細めると、そこに書かれた文字列を見つめた。
@karopoem_002
私は里子さんに気づかれないよう、そっと紙片をポケットに隠した。
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