「奔流」「花時」「穴」と、秋聲の静かな色彩表現について。
はじめて徳田秋聲の作品を読んだのは、確か大学生のころ図書館で借りた『あらくれ』だったと記憶しています。
私と同郷の作家ということもあって、読んでみようかと手に取ったわけなのですが、始めの方は今ひとつ物足りなさを感じていました。
きっと私が、たとえば奇怪な殺人事件とか、スリル満点のアクションとか、青春の恋愛模様とか、かなり強烈で扇情的な作品に慣れきっていたせいだと思います。若い世代を中心に「エモい」「バズる」「映える」などの言葉が浸透するくらいですから、現代の作品は強烈なシーンや凝ったシナリオ、魔法や異世界転生といった非日常的な物語が好まれる傾向にあるのかもしれません。
それに比べて、秋聲の作品はこのような「エモい」「バズる」「映える」 作品とはかなり隔てられた立ち位置にあるように思えました。
ありのままの日常を写し取る筆致、抑制された感情表現、一見淡白にさえ思える状況説明……などがそれに当て嵌まります。自然主義文学の作家、と称されているのも納得のいくところでしょう。しかし、現実の日常をそのまま小説にするということだけを意味するのでしょうか。私は、大学のころ『あらくれ』を最後まで読み終えたときにふっと胸のなかに落ちた、心地よい虚無と恍惚がどうしても忘れられませんでした。
偶然とは凄いもので、今回たまたま興味をもって選んだ全集第十一巻が、『あらくれ』発表から時を隔てない大正4年〜6年の作品を集めたものでした。こんなことってあるものなのですね。するするとページをひらいていくと、過去に作品を読んだときよりも鮮烈に、彼の文章が心地よく感じられて驚きました。それは一体なぜなのでしょうか。
明確な理由はわかりませんが、少なくとも過去の自分と比べて「エモい」「バズる」「映える」などの価値観から比較的自由になれたこと、強烈な物語を期待せずとも、ふだんの素朴な暮らしこそ実は神秘的であり貴重であることを、ここ数年の出来事を通して痛感したからかもしれません。
そうした「現代的な作品のフィルター」を除外できたときにようやく、秋聲の作品が実はとても色鮮やかに描かれていることを感じられたのでした。
愛妾として岩辻󠄀に嫁いだ照子の、愛情の浮沈・官能と倦怠が、抑制の利いた筆致で的確に描かれています。あくまで喜怒哀楽をほとばしらせるような表現は少ないのに、手堅くその人物の感情が伝わってくる。そんな不思議な魅力があります。
お見合いを終えた山田が、果たして相手の女性と結婚すべきかどうか、御神籤にまで頼って、彼は悩みます。花盛りの時分から新緑の映える季節への移り変わりと重なるように、彼の人生が転換期を迎えています。
十年ぶりに故郷の金沢を訪れた主人公・山野が、町の変化を感じながら過去を回想していく「穴」。彼の生家に粘着した因縁と町の産業の衰退、そして儚い希望とが、短い小説のなかで混沌と漂っているように思われました。「社」「絵額」「篝火」「色が褪せて」「歌舞伎」……といった言葉一つひとつの選択が、単なる過去の回想シーンに終わらない深みを与えているのではないでしょうか。
静かな色彩表現と言えばいいものか、決して激しくはない言葉のなかに深い洞察と情動が眠っている、そんな不思議な感覚に心地よく浸れるのです。
今回は3作品のみ、私が語れる範囲のことをお話ししました。まだまだ論点にすべき内容がたくさんあると思われますが、秋聲の作品は以後も長くおつきあいが続くでしょうから、また機会を見つけて文章にまとめていきます。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。
あなたにも、良い本との出会いがありますように。
それでは、またお会いしましょう。
小清水志織
鑑賞作品
「奔流」「花時」「穴」『徳田秋聲全集 第11巻』(八木書店、1998年)