【二次創作】ヰ世界情緒「パンドラコール」
行動することに、根拠なんて要らない。
本能の赴くままに、大学を選び、仕事に就き、趣味に耽り、女を愛する。そこに合理的な根拠は存在しなくてもいい。人に理由を問われたなら「ピンときたんだ」、こう答えるだけ。見栄やハッタリではなく、他に理由なんて要らなかった。それが、わたしの行動原理のすべてだ。
友人からは、わたしのこんな性分を羨ましいと言われたことがある。悪い気はしなかったが、それが、わたしにとっては当然なのだから、大した自慢にはならなかった。
両親からは危なっかしいと言われたこともあった。きっと間違いではないだろう。本能のまま生きてきたことで、これまで多少なりとも人間関係のうえで「怪我」や「火傷」を負ってきたのも事実である。だが、その度にわたしが取る対応も、やはりわたしの本能に則った選択なのであるから、リスクの多寡はさして気にならなかった。
複雑に絡み合う現代社会で、わたしは恵まれた性分に生まれた。ずっと、ずっと、そう信じていた。
この日も、わたしはそんな本能に従って、一軒の空き家へと吸い込まれた。
五月の大型連休明け、仕事帰りの重たい身体を引き摺って、K駅に向かう途中だった。道行く人々は、久しぶりの出勤に疲労を顔に浮かべながら、それぞれの方向へ歩いていた。わたしもその群衆のひとりとしてだらだらと足を運び、駅前に立つ巨大なモニュメントの影を遠く眺めていた。
時刻は午後十時に近づこうとしていた。連休中にためこんだ事務の仕事を片付けているうちに、あっという間に定時を過ぎてしまったのだ。午後九時半を回ったところで、さすがに体力の限界を感じて帰り支度をした。
この頃、特に体調が優れない。残業なんて日常茶飯事、少々眠れなくても風邪ひとつ引かないわたしにしては珍しいことだ。歳のせいかと思った。誕生日を考えてみると、この間、四十一歳になったばかりだと気がついた。数え年ならば厄年、しかも本厄。道理で身体のあちこちが言うことをきかないわけだ。
妻も子もなく、独り悠々自適な生活を送れているのが救いだろう。もし扶養すべき家族がいるのなら、多少の体調不良を愚痴っている場合ではない。休みたいときに休めて、動きたいときに動ける。その途方もない自由さが、わたしには何よりの幸福に思えた。
今夜は、ライトの眩しい本通りではなく、裏道を使って帰ろう。
なぜ、この日のわたしがそう思ったのかは分からない。やはり、根拠なんてないのだろう。明るい道に飽きてくると、時たま暗い道を歩いてみたくなる。幼い子どものような好奇心が、わたしを暗い裏道へと誘ったのだと思う。
問題の空き家は、そこで見つけたものだ。
オルゴールが鳴っていた。
曲名は思い出せなかった。優美で儚く、悲壮感をも漂わせた、人の魂を引き寄せる旋律。
音の在り処を探るように、付近の住宅を一軒ごとに観察していくと、とある暗い平屋の前で立ち止まった。そのとき、わたしの本能にピンとくるものがあったからだ。
酷い黴の匂いがした。あちこち経年劣化が進んで、青い屋根はペンキが剥げている。雨や雪の多い地域に特徴的な、入口の扉の前に風雪を避けるための「風除室」がついているタイプで、明らかに人気を感じない寂しい家だった。
雪の少ない地域で育った人には想像しづらいかもしれないが、風除室は大抵、透明なガラスで出来ている。ガラスに付着した汚れを払い落として、その奥を目を細めて見てみると、薄っすらと表札の文字が読めた。
風除室の中へ、足を踏み入れる。
玄関の鍵が開いていることは既に知っていた。そんな気がしたのだ。
ドアノブを捻ると、いとも簡単に扉が開いた。迷いも遠慮もなく、家の中を進んでいく。不法侵入という言葉が浮かんだが、平気だった。もしも警察に咎められたら即座に詫びればいいだけの話だ。ちょっと酔っていて、かつての我が家だと思いました、とかなんとか、適当な言い訳をしながら。
オルゴールの音が大きくなっていく。やはり、この家が正解のようだ。足早にダイニングへ入ると、埃まみれのソファとテーブルが出迎えてくれた。ザラザラした埃を手で払って腰を下ろしてみる。ほっと一息ついて、全身から力が抜けていくのを感じた。小さなクッションが三つ、家族のように仲良く並んでいる。
新調した背広を汚したくなかったので、脱いだあとで床につかないようカバンの上に置いた。部屋を見渡すと、品の良い家具や食器が目についてくる。ウッディなテーブル、高級感あるグラス、そして床に転がったマグカップ。現代ではほとんど使われなくなった黒電話も置いてある。
そして何よりも存在感を放っていたのは、部屋の中央に鎮座するグランドピアノと、その近くの窓辺に立て掛けてあるチェロだった。
しかし、何処からオルゴールが聞こえてくるのか、それだけが分からない。ダイニングの隅々を歩いて回ったけれど、それらしき物体は発見できなかった。食器棚の中やカーテンの裏側、ソファの下なども調べてみたが、目的のものは影も形もない。
少しだけ眠気を感じて、わたしはテーブルの上のアナログ時計を見た。午後十時半すぎ。濃紺色に包まれた闇の中、偶然に迷い込んだわたしと、オルゴールと、無言の家具・楽器たちだけが存在している。これは夢かもしれぬと思って頬を抓ったが、目が覚めない。やはり現実らしい。
わたしは、チェロに手を伸ばした。下から小さな黒い蜘蛛が飛び出してきたのでたまげたが、すぐに部屋の隅へ消えていった。
ボディの塗装がだいぶ剥げている。このチェロは、しっかりと音が鳴るのだろうか。
そう思いながら、冷たく光る弓を弦に当てたときだった。
ジリリリン、ジリリリン!
けたたましく鳴り響く黒電話の音。仰天したわたしは、チェロをソファに寝かせて、受話器を取った。まさか、この時代にまだ開通していたとは。震え気味の右手で受話器を押さえ、反対の手で胸の動悸を押さえる。電話を取るべきか否か、やや逡巡した後に、わたしは受話器を持ち上げた。それを恐る恐る耳に当てると、優しく、掠れた女の声が聞こえてきた。
「わたしよ」
安心した。知らない人物だったらどうしようと冷や冷やしていた。電話の主が彼女で本当に良かった。わたしは嬉々として答えた。
「久しぶりだね。元気だったかい」
彼女はやはり掠れた声で答えた。
「もちろん。有り余るほどに元気よ」
いまからそちらに行く、とのことだったので、わたしは暫らく待つことにした。十数年ぶりに逢うのだから、掃除のひとつしておかねば罰が当たる。モップと雑巾を掃除用具庫から引っ張りだして、せっせと掃除を始めた。あっという間に全身が埃まみれになったが、それ以上の歓喜と興奮に包まれて、残業の疲労感なんてすっかり吹き飛んでしまった。
しばらく待っていると、カチャリと扉が開いた。白を基調とするドレスに身を包んだ彼女が、艶やかな表情で立っていた。胸には紫色のスミレが一輪、控えめに挿してある。
かつての熱情が全身から沸き上がり、わたしは強く強く彼女を抱擁し、深い口づけを交わした。
「んもう、激しいったら」
彼女は不平を漏らしつつ、しかしまんざらでもなさそうに言った。わたしにはそれが世界全土の幸福に思われて、なおも彼女の唇を吸い続けた。
「相変わらずの偏愛ね」
「なに、君には敵わないさ」
わたしたちはソファに並んで腰掛けて、積もる想い出話を語りあった。うるさがるかもしれないとは思ったけれど、何よりも彼女と再会できた悦びが勝っていた。話題は最近に芸能界で広まったゴシップや、流行中のアーティストの音楽、そして去年に行った伊豆旅行のことにまで及んだ。彼女は嫌な顔ひとつせず、全てを受け容れるように聴いてくれた。
「あら、もうこんな時間」
日付はとっくに変わっていた。それでも、わたしが睡魔に襲われることがなかった。彼女のほうも、まだ眠るには物足りない様子で、こちらに提案した。
「あの頃みたいに、ふたりで演奏しない?」
彼女は立ち上がって、ピアノの席に座る。
わたしは嬉しかったが、少し不安になって聞いた。
「演奏はしたいけれど、こんな深夜に大丈夫かな」
「平気よ。あなたは本能のままに弾けばいいわ」
何が「平気」なのか、わたしには分からなかったが、彼女の言葉に嘘はないと思った。それよりも「本能のまま」と言われたことで、わたしの躊躇いの一切が消え失せてしまった。
わたしはチェロを固く握りしめた。
「どの曲にする?」
わたしの問いかけに、彼女は静かに首を横に振る。
「あなたは、わたしの演奏に、黙ってついてくれば、それでいいわ」
彼女が鍵盤を叩き始めた。さすが、三歳からピアノを習っているだけのことはある。両手とも、まったくミスすることなく、なめらかにクリアな音を奏でていく。彼女の表情はとても清廉で、美しい。
わたしも演奏を共にしよう。
チェロを演奏するのは久しぶりだった。しかも、これは初めて耳にする曲だ。彼女の演奏を聴いていると、不思議と腕が自由に動いてくれる気がした。
彼女のピアノと、わたしのチェロ。
お互いの音色を重ねあわせる、二人だけの夜。
重なり合った旋律は、わたしたちの愛そのものと比例して、幸福な時間を紡いでいく。
「何年前になるかしら」
彼女が問うた。楽譜からは一切、目を離していなかった。
「あなたと、こうして演奏をするのは」
「はじめて、君がわたしのアパートに来たときだよ」
「そうだった。懐かしいわね」
女性を自宅に呼んだのは、あれが人生初の経験だった。その夜も、二人で力尽きるまで演奏したものだった。
彼女は歌いだした。部屋に豊かな歌声が響きわたる。
わたしが初めて、彼女をひとりの女性として意識したのは、彼女の歌声を知ってからのこと。
彼女がサビを歌い終えて、演奏が止んだ。
わたしは大きく拍手を送る。
「すばらしい、すばらしいよ! なんて美しい歌声をしているんだ!」
彼女は恥ずかしそうに手で顔を覆った。
「曲のタイトルは、何と言うんだい?」
「秘密。これはわたしのオリジナル曲で、第二部まであるの」
彼女が席に座り直し、再び鍵盤に指を重ねる。
クレームを言いに来る人がいるかと危ぶんだが、あたりは、まるで死んだように静寂に包まれている。幸い、ご近所迷惑になっていないようだ。
「第二部、始めるわね」
彼女が鍵盤を叩く。音色が広がる。それに合わせてわたしが弦を弾く。体と心のが、軽快なリズムに乗ってきた。
こんな幸せな時間が、どれほど続くのだろう。
そう思ってちらと時計を見たとき、わたしは驚きを隠せなかった。
部屋のアナログ時計が、午後十時半を指している。
演奏する前は、確かに深夜十二時を回っていた。間違いかと思ってもう一度見直すと、針がカチンと動いて、今度は十時二十九分を指した。
間違いない。この部屋を流れる時間が、ゆっくりと巻き戻されている。
「見ろよ、時計が反対に動いてるぞ」
しかし、彼女はわたしの言葉に返事をせず、ピアノを引き続けた。時計の針が、カチンと午後十時二十八分を指す。
「どうしたんだい? わたしの声が聞こえないのかい?」
なおも返答を拒んでいる彼女を、わたしは怪訝に感じた。時計が逆進している異様な光景にも刺激されて、とうとうわたしはチェロを放り出して彼女に詰め寄ろうとした。
しかし。
全身が、まったく言うことを聞かない。
まるで高電圧の電流に打たれたように、筋肉が動かなくなっているのである。
声を出そうにも、喉が痙攣して一言も発することができない。さらに両腕が、見えない糸に操られているかのごとく、勝手にチェロを握ろうとする。そのまま弓を振りかざして、聞くに堪えない滅茶苦茶な音をかき鳴らしてしまうのだ。
「やめてくれ」
わたしは誰にともなく、絞り出すように懇願した。心臓の鼓動は早鐘のように警告音を鳴らしている。額から脂汗がにじみ、口の中がカラカラに乾く。
このような状況でも、彼女は演奏をやめない。彼女の美しい演奏が、だんだん得体の知れないものに感じてくる。わたしは気分が悪くなってきて、チェロから両腕を離そうと試みたものの、むしろ反対に、狂ったように弦を擦りつづけてしまうのである。
ようやく、彼女が口を開いた。
「私の生み出す歌や音楽に《霊性》があると教えてくれたのは、あなただったわね」
「そ、そうだ」
精巧に造られた、音の罠。
なぜ、今頃になって思い出すのだろう。
彼女の音楽には、人の魂を奪い取ってしまう「霊性」が宿っていることを、わたし自身よく知っていたはずなのに。
この音楽が現世に存在するかぎり、わたしは彼女の存在から逃れることができない。
存在ばかりではない。彼女と、わたしの背負った過去からも、決して逃れられはしないのだ。
彼女は歌を止めて、蔑むような口調で言う。
「これはいかが?」
彼女のピアノを弾く手が変わった。低音な前奏から始まって、ダンダンダンダンと激しく心臓を揺さぶる旋律が展開されていく。わたしは胸に激痛を感じた。ソファから転げ落ちて、刃を刺された毒蛇のように、そこら中をのたうち回った。
地獄の業火のごとき苦しみ。
その間、時計は確実に時を巻き戻していく。血走った眼を開いて、辛うじて時計を見上げると、すでに午後十時五分になっていた。
わたしは、そろそろ「あの時」が近づいていることを悟った。
「あの頃、わたしはあなたの子を身籠っていた。子育てに対して不安だらけの日々に、あなたと共演する音楽だけが、唯一の心の拠り所だった。なんてわたしはラッキーなんだ、素敵な人を選んだものだと、そればかり誇りに思ってきた」
朦朧とする意識に溺れながら、彼女の掠れた声が脳に直接響き渡る。
「あなたが、ひとつ歳下の娘の家に通っていたことを知るまではね」
わたしはピアノに向かって震える腕を伸ばした。今更、すべて手遅れなのは分かりきっていた。命乞いさえ無駄なのだろうとも感じていた。それでも最期の最期まで、わたしの胸に巣食う気高い自尊心が、彼女の断罪を拒もうとしている。
わたしはこれまで、本能のまま生きてきた。趣味に耽るのも、女を愛するのも、すべて本能に従って選択してきた。君を愛したのも、あの娘を奪ったのも、同じ根っこから生じた行動に過ぎない。わたしの常識では、なんら矛盾するところがなかったのである。それなのに、君はわたしの選択を不貞だと詰り、この世の終わりのことのように受け止めて、罵倒した。そして、途轍もなく重たい方法でわたしに復讐を果たしたのだ。
「平成元年五月七日午後十時二分」
そう口走る彼女の眼は、狂気に満ちた怒りで光っている。
「わたしは、この部屋で首を吊った」
時計の針が午後十時二分を示した瞬間、彼女は十本の指で鍵盤を一気に叩きつけた。
世界が崩壊する音。
すべての意識が消失する、恐怖の音。
きっと彼女も聞いたであろう、己の命が滅びた刹那の、悲しい音。
そうだ。
ようやく、わたしは理解できた。
謎のオルゴールの音色を聞いた瞬間。
かつての我が家の表札を読んだ瞬間。
躊躇いもなく家の中へ侵入した瞬間。
そのどれもが、彼女とわたしの間に横たわる過去の延長であり、罪業のメッセージであった。
そして、彼女はギリギリまでわたしに生き残る機会を与えてくれていたことも。
あの黒電話が最後のチャンスだったのだ。あの電話さえ取らなければ、わたしは無事に帰宅することができたはずだった。受話器に手を触れたとき、それこそが、パンドラの箱を開けてしまった瞬間だったのだ。
決して逃れることのできない災厄を、わたしは自らの手で選択したのである。
かつて偏愛を傾けた女性から、不義の審判を下されるために。
己の力では命の進退を決められない、弱すぎる男の醜態を彼女に晒すために。
彼女は笑っていた。ひどく幸福そうだった。ひどく悲しそうだった。ひどく虚しそうだった。ひどく愛おしそうだった。
そのすべての原因が己の過ちにあることを呑み込んだまま、わたしの意識は深く深く、永遠の闇へと沈みこんでいった。
***
朝、地方テレビ局のアナウンサーが原稿を読み上げている。
「今朝の八時頃、K駅周辺の一軒家で男性の遺体が発見されました。男性はこの地域に住む会社員とみられ、警察は身元の特定を急いでいます。死因は窒息死と推定されましたが、原因は不明だということです。現場には大量の楽譜が散らばっており、男性の顔のうえには一輪のスミレの花が置かれていたことから、男性が何らかの事件に巻き込まれたとみて捜査を進めています……」
〈完〉
オリジナル:「パンドラコール」
歌唱/ヰ世界情緒
作詞・作曲・編曲/廉