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夏炉冬扇 #6

*第5話はこちらから

自動車のクラクションが鳴っている。入り組んだ狭い四ツ辻を多数の自動車が行き来しようとするせいだ。事故を起こしたくない私は、潔く自転車を降りて、するすると横断歩道を通り抜けていく。その間にも、後方のドライバーが忙しなくクラクションを連打して先を急ごうとしていた。

もう、ここは国内有数の茶屋街なのだから、もっとゆとりある運転をしてほしい。平日にも関わらず混雑するのは多くの観光客らで賑わっているからだ。日本人だけでなく、英語や中国語、なかには私の知らない言語で談笑する男女が四ツ辻を交差し、人の波をかたちづくっている。

私が茶屋街でお菓子とお抹茶を頂いたのは中学生のころ。総合的な学習の時間だったか、地元散策のカリキュラムがあって、有名観光地の見学や伝統文化の体験をすることができたのだ。当時、伝統文化なんて古い人間の遺産くらいにしか思っていなかった私は、芸妓さんが優雅にお茶を立てる姿に目を見張り、その美しさに見惚れたものだった。

道路の傍を穏やかに流れるのは朝乃川。今日は曇り空なので鈍い灰色の水面を揺らめかせているが、晴天時ならキラキラと日光が乱反射して、水上の天の川さながらに美しくなる。朝乃川を横切る萩橋を越えて横断歩道を渡ると、目的の建物が現れた。

花澤文藝図書館。

背の高い木立が、古風な洋館のような容貌を半分ほど隠している。かつては銀行だったものを、戦後に改装した、地上三階・地下一階建ての建物。この地域の歴史や風土を記した郷土資料や、地域に所縁のある文豪の著作などを閲覧できる。文芸館と図書館の機能を備えた、読者と創作好きな私にとっては「美味しい」文化しか存在しない素敵な空間だ。

そして最も美味しいこと、それは三階のモダンなしつらいのフロアで、毎年県民向けの文芸講座が開かれていることだ。

私は、その第十四期修了生なのである。

自転車を停めると、私は緊張と興奮の混ざった心持ちで白い大きな扉を押し開いた。

「こんにちは…?」

中を覗き込むように顔を受付に向けると、物腰の柔らかそうな四十代の女性が笑顔を見せた。

「いらっしゃいませ…! あら、冬扇ちゃん!? 久しぶりね」

こざっぱりとしたワイシャツに薄い紺のカーディガン。眼鏡の度が強いのか、こちらからだと顔の輪郭が数ミリずれて見えている。左手首には茶系のバンドの腕時計、その薬指には銀の指輪。あの頃と少しも変わらない姿に安堵した私は、フードを外して深々とお辞儀をした。

「里子さん、お世話になっています。徳田冬扇です」

すると里子さんは、大袈裟に「まあ」と手を口許に当てた。

「お世話になってだなんて、えらく他人行儀じゃない。あなたはここの修了生よ?」

私は慌てて口をすぼめる。二年前に講座を受講していたころは、「里子さん、ちわっす!」が毎度の挨拶だった。僅か半年の社会人生活でこうも言葉遣いが変わるものなのかと、「大人」に染まりつつある自分に少しだけ恐怖を覚えた。

「えへへ、つい会社の癖が出てしまって」

「そっか、もう社会人だったかあ。早いわねえ。お仕事は順調? 恋人はできた? 小説は書いてるの? お兄さんは元気?」

ちょっと、二年ぶりで嬉しいのはわかるけど、せめて一問一答にしてくれ。決して悪い人じゃないのだけど、この質問攻めマシンガンにはいつまでも慣れそうにない。私はこほんと咳払いすると、順番に回答していった。

「ひとつ、会社には休まずに行けてます。ふたつ、恋人は絶賛拒絶中です。みっつ、小説は下手の横好きで性懲りもなく書いてます。よっつ、兄は馬鹿なので風邪を引きません。これで全部ですか?」

里子さんは大きく拍手をする。

「さすが、聖徳太子も真っ青の回答能力ね。これなら心配ないわ」

何を基準に心配ないのか説明してほしいところだけど、まあよい。今はそれどころではないのだ。私は「フレア」での失態を繰り返さぬよう、単刀直入に兄のことを尋ねた。

「あの、すみません。ここに私の兄が来ませんでしたか?」

里子さんはキョトンとした表情で首を振る。艶のあるロングヘアが左右に膨らんで、甘いシャンプーの匂いが鼻を掠める。

「いや? 以前いらしてた双子のお兄さんのことでしょ? 今日の男性客はお年寄りの方だけだった気がするわ。若い男性は来なかったわよ」

私は落胆した。肩透かしを食らった気分だ。一体、どういうことだろう。兄が母に花澤に来ると告げたのは嘘だったのか、間違いだったのか。それとも、兄が他の場所で道草を食っていて、たまたま私が先に着いてしまったのだろうか。悔しい。

顔を曇らせる私を見て、里子さんは励ますように言った。

「お兄さんと待ち合わせしていたの? なら、しばらく中でゆっくりしていいわよ」

「ありがとうございます……」

一回三百円の入館料を支払って、里子さんに手を振る。本当は待ち合わせではないのだけど、長々と事情を説明している時間も惜しかったので、私はご厚意に甘えて中央のエレベーターから二階へと上がった。少なくとも、ここで待ち伏せしていれば兄に会える可能性は高まるのだ。それまで時間を潰そう。

二階は、よい紙の匂いで満ちている空間だ。郷土に所縁のある作家、思想家の著作がずらりと並んだ書庫となっている。泉鏡花、室生犀星、西田幾多郎、鈴木大拙、広津里香…。必ずしも地元出身でなければならないというルールはなく、彼らの生涯のなかでこの地域に関係があれば、著作を並べられる対象となる。背表紙を眺めるだけで涎が出そうなタイトルの隊列に、私は時間を忘れて悦に浸かった。

この物語の結末を覚えている。あの主人公の台詞が脳内で生き返ってくる。作者の為人ひととなりやエピソード、それらを読んでいた当時の私の感情もせりあがって、恍惚とした気分になってくる。やっぱり、私は本が好きだ。本という媒体に友人のような親しみを感じ、物語という存在を愛している。どこまで歳を取っても変わらない、私のこころを照らす大切なもの。そこで、つつつ……と指先で本をなぞっていくと、ふと小さな疑問が湧いた。

あれ、変だな。

二年前に初めて講座を受講した日も、私は書庫の前で本のブラウジングに精を出していた。あの頃はタイトルだけを知っていて、中身を読んだことのない作品ばかりだった。整然とした背表紙に触れて、「どんな物語が待っているのだろう」とワクワクして、私の世界が拡がっていく感覚が心地よかった。あれも読みたいな、これは難しそうだなと、独り本たちと対話するなかで、初見の文庫本が目に留まった。

現代文の授業でも教わらなかった本のタイトルへ、何故か私の手指は動いた。未知の世界を知りたがる無邪気な好奇心がそうさせたのかもしれない。単純に活字に飢えていたからかもしれない。いずれにしても、本との出逢いは私の価値観を大きく変貌させる爆風のようなちからを発揮するときがある。あの本も、まさにそうした一冊だった。

……徳田秋聲の『あらくれ』だ。

いまの私を、かたちづくってくれた大切な本。
いや、この徳田冬扇という人格キャラクターを創ってくれた物語、という方が正しいか。

シンプルで猛々しい表題を想うたび、胸に熱い血液がはしるのを感じる。

でも、それが書庫にはなかった。

図書館なのだから、誰かが借りているのかもしれない。でも、他の秋聲の文庫本は並んでいるのに、特定の一冊だけが抜けているというのは違和感があった。私と同じように、『あらくれ』に興味をもつ人が来たのだろうか。漠然とした疑問が頭をよぎり、欲しかった本が手に入らない失望感を覚えた。ふうと、なま温い溜息を空気に混ぜ込む。

まあ、いいか。仕方ない、これもひとつの運だろう。今どうしても必要な本ではないし、私にはなくても困らない。

そう納得させてから、書庫から身を離した。数歩進んで、階下に降りようとしたとき、さっきの思考に戦慄している自分に気がつく。

私、「どうしても必要な本ではない」って考えてたか?

『あらくれ』は、リアルな私とフィクションの冬扇にとって大切な本のはずなのに。昔だったら、欲しい本が手に入らないだけで機嫌を損ねて、兄に悪態をつくくらいだった。図書館へ行って、見つからなければ書店へ、書店になければネットショッピングを利用してまで買うほどの愛着と執着があったのだ。それを今では、「どうしても必要な本ではない」と自分を納得させている。どうして、かつて愛したはずの本まで無頓着になっているのだろう。

就活のころからか、私はどうにかおかしい。小説を書く筆が重たくなったのもこの頃だ。内定を得るべく東奔西走し、面接先の企業からメールが届いていないか数時間おきにチェックし、趣味の時間よりも収入や生活を優先して行動するようになった。今の職場に就いてからも、上司への配慮や電話応対の練習を繰り返し、毎日の大半を誰かに決められた仕事で埋めていく。それは一種の大人としての成長なのだから、もちろんいい面もある。任される仕事は未知の体験でやり甲斐があるし、お金だって自力で稼げている。だが、かつて愛した物語を愛せず、親しんだ友人とも疎遠となり、兄や母に素直に接することのできなくなっているのは、言いようもなく寂しかった。そして、寂しい感情を認めつつも、変えられなかった。

私は「大人」になったのだ。遠い将来だと思っていた大人になって、その感覚に慣れてしまっている。それが、これまで好きで小説を読み書きしてばかりしていた私には寂しいのだ。

ざあと、激しい雨の音が建物の外で鳴った。私は驚いて窓辺に駆け寄る。いつの間にか、雷を伴う雨が路上を黒く染めている。

しまった、天気予報では夕方から雨だった。現在午後三時半すぎ。最近の天気予報は正確だ。完全なる私の落ち度。どうしよう、よりによって自転車で来ちゃったよ。諦めて兄に電話して迎えにきてもらおうか。

呆然とした脳みそでグルグルと考えを巡らせていると、ガサッ、ガサッという足音が外の方から聞こえてきた。窓へと近づき、雨が降って視界の悪くなっている外を見下ろす。あそこは確か花壇と詩碑がある場所だったはず。誰かが階下で動いているようだ。再び、ガサッと謎の足音が聞こえて、すぐに消えてしまった。後には激しい雨の音だけが建物を騒がせている。

兄が、来たのか。そうならば有無を言わさず家まで付いてもらおう。必死になって花澤へ来たのは兄のせいなのだ。紛らわしく花束をもって出かけるから悪いのである。兄なら傘くらい持っているだろうし、相合い傘なんて癪だから、私一人で兄の傘を使ってやろう。ふふふ、兄よ、今度はお主が濡れる番だぞ。覚悟いたせ。

そんな物騒なことを妄想しながら、私はエレベーターを降りた。




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