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言葉くづし 19―香林坊橋

私は手紙を畳むと、もとの小瓶に詰めて封をした。よく晴れた夏空に金沢城の白い影がよく映えていた。手紙を最後まで読んだ私は、きっと聡子さんが金沢城に来ているのではないかという予感がした。私は居ても立ってもいられず、頭上に架かる巨大な石川橋めざして走り出した。

聡子さんが手紙に書いていた徳田達裕とは、私の父の名前だった。医学部を志していた父は成績がよく、ルックスも悪くなかったから女子の間で人気があったという話は聞いていた。

父と幼馴染みである聡子さんが彼に恋心を抱いていたのも頷ける。だからこそ、詩作の仲間であり親友でもある雪枝さん――私のお生母さんが彼を慕っていると知ったとき、聡子さんの心情はいかばかりであっただろう。

高校在学中の私たち三人の関係については、かなり微妙な感じがありました。徳田くんは幼馴染みというのもあって、私の気を引くような言動を見せたり、ときにはスキンシップも厭わない性格でした。私は勝手に、彼が私に気があるのではと想像して甘美な優越感に浸っていました。ただし、それ以上の進展はなく、お互いの本心を告白しないまま卒業の日を迎えました。
それぞれが新たな進路にむかって羽ばたいていく時期に、先に行動したのは雪枝でした。彼女は徳田くんに接近しようとしたのです。そして、無邪気にも恋の助言を他ならぬ私に求めてきたのでした。
彼女は自分の恋に夢中になって、私の気持ちにはまるで気づいていないようでした。
このときの私がとった行動を、私は生涯赦すことができません。否、行動それ自体より、むしろ心の隅に芽生えた悪意そのものを赦せないのです。

私は、雪枝に勝つための手段を選びました。

彼女は成績は良かったし才能もあったけれど、世間の流行や男女の機微といったものに疎いところがありました。そして、徳田くんはそうした社会的なわきまえをもつ女子を好むことも知っていました。だからこそ私は彼女に、いっそ徳田くんをデートに誘ってはと背中を押したのです。

広大な金沢城公園の空気を吸い込んで、私は当時の情景を思い浮かべた。かつてここは国立大学のメインキャンパスだった。

彼は当時、地元では有名な国立大学の医学部に合格しておりました。医学部キャンパスは城内キャンパスから離れたところにありますが、一回生のうちはカリキュラムの関係で城内に通う日も多いのです。私は、四月からの予行も兼ねて徳田くんと城内で遊んできてはどうかと彼女に提案しました。
私の肚のなかでは、必ず彼女はデートに失敗するという暗い自信が渦巻いておりました。長年、徳田くんのことを観察してきた私は、彼が雪枝を選ぶはずがないと思い込んでいたのです。時期尚早なデートを提案することで、二人の仲を引き裂こうとしたのです。私は言い逃れのできない悪魔でした。

石川門をくぐり、緑の広がる公園を前にする。私は、現在では存在しなくなった大学の旧校舎を想像してみた。大勢の若い男女が金沢城に集い、語りあい、将来への期待と不安とを背負って過ごしていた学び舎。およそ三十年前、父とお生母さん、そして聡子さんは、この場所で自らの未来を賭けていた。

雪枝と私の勝負の結果は、もうお察しのとおりです。そう、私の負けでした。私は雪枝との恋の勝負に勝とうと画策した結果、かえって二人の恋を手助けする格好になりました。二人のデートは驚くほど上手くいったのです。

私は何も知らない大馬鹿者でした。二人は密かに想い合っていたのです。まさかそうだとは気づかず、私は無防備にも雪枝を助けるフリをしていたのです……。愚かなのは私のほうでした。そして、後悔しても既に後の祭りでした。

ごめんなさい、こんな暗い昔話をされても、困ってしまいますね。

それでも、あれから三十年も経って当時のことを振り返ってみれば、これで良かったと思えるようにもなりました。晴れて徳田くんと結婚した雪枝は、冬花さんと冬仁くんいう元気な双子を出産しました。私のほうも、後になって現在の夫と出逢い、やがて貴女と同じ年に小夏を出産いたしました。我が子に勝る幸せはないと、母親となったいまでは自信をもって言うことができます。
ただ……。ただ、理由はわかりませんが、雪枝が冬花さん達を置いてどこかへ行ってしまったこと、きっと貴女も寂しい想いをしているだろうこと、あの頃に作りたかった詩集が頓挫してしまったことが、いつまでも心に引っかかっています。

聡子さんは、自分のことを悪魔だと言った。
しかし、本当にそうだろうか。
父は、高校在学中には聡子さんにも接近していた。聡子さんが勘違いするくらいのそぶりを見せたりもして。

三人のうち、最も気持ちが揺れていたのは、もしかして父なのではないだろうか。聡子さんと雪枝さん、両方の女性の間を行ったり来たりしているうちに、たまたまデートに誘ってくれた雪枝さんを選んだのではなかったのか。そう考えれば色々と辻褄が合う。雪枝さんが私たちを残して離婚したのも、最近になって父が聡子さんと再会し、「悲しそうな顔をする」のも。さらにお義母さんは、そんな父の様子を見て「あの人の女になれない」と嘆き悲しんでいる。

みんな、自分の過去の言葉や行動に縛られ、苦しんでいる。
そして、親の世代に起きた「物語」の延長線上に、私たちが立っているのだ。

このままでは、物語を終わらせたくない。終わらせるわけにはいかない。

「聡子さん!」

ようやく見つけた。やはり聡子さんは金沢城に来てくれていた。鶴の丸休憩館の椅子に深く腰を下ろし、物思いに耽っている。

私の声に振り向いた彼女は、私に気がつくと弾かれるように席を立った。おろおろした足取りで近づいて、涙を浮かべて頭を下げようとする。

私は必死にそれを制止した。私は聡子さんや夏炉を責めるつもりは全くなかった。それよりも、聡子さんが自分の罪の意識すら晒け出して、お生母さんの過去を教えてくれたことに感謝していた。

かつて、お生母さんは聡子さんと親友になり、二人でひとつの詩集を作ろうとしていた。その事実が、暗く塞いだ私の心に燈火をもたらしてくれたのだ。

「私こそ、突然お二人のお家で倒れてしまい、申し訳ありませんでした……。私、お二人に怒ってなんかいません。そして、お義母さんの言いなりになって、お二人と縁を切るつもりもありません」

「冬花ちゃん……」

私の両肩に手を置く彼女を、そっと握り返す。

「聡子さんにこんなお願い事をしたら、きっと驚くかもしれないのですが。
私、もう一度お二人のお家に行きたいんです。行って、あの夜に倒れた部屋を見せて頂きたいんです。このままじゃ、こんなかたちで終わってしまっては、私たちは納得できない気がします。
生みの親である雪枝にまつわる秘密も、そこにある気がしてならないんです。たとえそこで、どれだけ辛い過去を見つけたとしても、どれだけ暗い未来が待っていたとしても、私は後悔したくない。もう一度あの部屋に戻って、いま、この眼で確かめたいんです」

一息に捲し立てる私に、はじめ聡子さんは面食らった様子だった。二言三言、そっと来宅を控えてほしい旨の言葉が彼女の口から漏れた。しかし、彼女にもあの部屋には思う所があるようで、最後には優しく微笑んで承諾してくれた。

私は聡子さんの車に乗せてもらい、霧島家へ向かうことになった。

(つづく)

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