言葉くづし 19―香林坊橋
私は手紙を畳むと、もとの小瓶に詰めて封をした。よく晴れた夏空に金沢城の白い影がよく映えていた。手紙を最後まで読んだ私は、きっと聡子さんが金沢城に来ているのではないかという予感がした。私は居ても立ってもいられず、頭上に架かる巨大な石川橋めざして走り出した。
聡子さんが手紙に書いていた徳田達裕とは、私の父の名前だった。医学部を志していた父は成績がよく、ルックスも悪くなかったから女子の間で人気があったという話は聞いていた。
父と幼馴染みである聡子さんが彼に恋心を抱いていたのも頷ける。だからこそ、詩作の仲間であり親友でもある雪枝さん――私のお生母さんが彼を慕っていると知ったとき、聡子さんの心情はいかばかりであっただろう。
広大な金沢城公園の空気を吸い込んで、私は当時の情景を思い浮かべた。かつてここは国立大学のメインキャンパスだった。
石川門をくぐり、緑の広がる公園を前にする。私は、現在では存在しなくなった大学の旧校舎を想像してみた。大勢の若い男女が金沢城に集い、語りあい、将来への期待と不安とを背負って過ごしていた学び舎。およそ三十年前、父とお生母さん、そして聡子さんは、この場所で自らの未来を賭けていた。
聡子さんは、自分のことを悪魔だと言った。
しかし、本当にそうだろうか。
父は、高校在学中には聡子さんにも接近していた。聡子さんが勘違いするくらいのそぶりを見せたりもして。
三人のうち、最も気持ちが揺れていたのは、もしかして父なのではないだろうか。聡子さんと雪枝さん、両方の女性の間を行ったり来たりしているうちに、たまたまデートに誘ってくれた雪枝さんを選んだのではなかったのか。そう考えれば色々と辻褄が合う。雪枝さんが私たちを残して離婚したのも、最近になって父が聡子さんと再会し、「悲しそうな顔をする」のも。さらにお義母さんは、そんな父の様子を見て「あの人の女になれない」と嘆き悲しんでいる。
みんな、自分の過去の言葉や行動に縛られ、苦しんでいる。
そして、親の世代に起きた「物語」の延長線上に、私たちが立っているのだ。
このままでは、物語を終わらせたくない。終わらせるわけにはいかない。
「聡子さん!」
ようやく見つけた。やはり聡子さんは金沢城に来てくれていた。鶴の丸休憩館の椅子に深く腰を下ろし、物思いに耽っている。
私の声に振り向いた彼女は、私に気がつくと弾かれるように席を立った。おろおろした足取りで近づいて、涙を浮かべて頭を下げようとする。
私は必死にそれを制止した。私は聡子さんや夏炉を責めるつもりは全くなかった。それよりも、聡子さんが自分の罪の意識すら晒け出して、お生母さんの過去を教えてくれたことに感謝していた。
かつて、お生母さんは聡子さんと親友になり、二人でひとつの詩集を作ろうとしていた。その事実が、暗く塞いだ私の心に燈火をもたらしてくれたのだ。
「私こそ、突然お二人のお家で倒れてしまい、申し訳ありませんでした……。私、お二人に怒ってなんかいません。そして、お義母さんの言いなりになって、お二人と縁を切るつもりもありません」
「冬花ちゃん……」
私の両肩に手を置く彼女を、そっと握り返す。
「聡子さんにこんなお願い事をしたら、きっと驚くかもしれないのですが。
私、もう一度お二人のお家に行きたいんです。行って、あの夜に倒れた部屋を見せて頂きたいんです。このままじゃ、こんなかたちで終わってしまっては、私たちは納得できない気がします。
生みの親である雪枝にまつわる秘密も、そこにある気がしてならないんです。たとえそこで、どれだけ辛い過去を見つけたとしても、どれだけ暗い未来が待っていたとしても、私は後悔したくない。もう一度あの部屋に戻って、いま、この眼で確かめたいんです」
一息に捲し立てる私に、はじめ聡子さんは面食らった様子だった。二言三言、そっと来宅を控えてほしい旨の言葉が彼女の口から漏れた。しかし、彼女にもあの部屋には思う所があるようで、最後には優しく微笑んで承諾してくれた。
私は聡子さんの車に乗せてもらい、霧島家へ向かうことになった。
(つづく)