夏炉冬扇 #4
九月二十一日、火曜日。たまたま、私は職場から振替休日を貰っていた。
不動産業の事務職に就いた理由は、正直なところ曖昧なままだ。確かに、幼い頃に初めてマイホームに移り住んで、家族団らんの場をもてる幸福を早いうちに感じたから、という理由は大きいと思う。しかし、大学で不動産業界を調べていたわけではなく、もっぱら空きコマには大好きなアニメや音楽に浸り、そして小説の創作に打ち込んでいた。大学三年のうちからインターンシップなるものを経験しておかないと四年次に内定が貰えないかもしれんぞ、という大学からの無言の圧力に屈して、就職サイトをサーフィンしていたところ偶然見つけたのが今の職場だった、というだけの経緯。新卒で応募する学生の数が少ない会社だったことも幸いして、たった二回の面接で内定を貰った。
とはいえ、職場の先輩は心の温かい方が多いし、比較的定時で帰らせてもらえるので(「残業代は払わんからな!」との部長からの冗談混じりのお達しも功を奏して)、わりと働きやすい環境は整っているな、と感じている。
しかも今週は、二日連続で平日に休めるのだ。今日火曜は先週六日分を働いた振替休日。加えて定休日の水曜。私は特に、必ず平日に堂々と休めることが嬉しくて仕方がなかった。いつだって銀行や郵便局にいける安心感と、空いた道路を自転車でスイスイ走らせられる快感。親とはあまり仲良くないので、家の居間にいたってろくに会話なんてしないのだ。それなら思い切り外の景色を楽しむか、反対に静かな一人部屋に籠もって小説や音楽に溺れていたほうがずっと私のためになる。しかも私の場合、シエスタも大得意だしね!
しかし、ことはそう思い通りにいかないようだ。せっかく枕に頭を埋めながら愉快な気分に浸っていたのに、邪魔が入ってしまった。ノックと小言がセットになって私の聖域を侵害してくる。紛れもなく、あの母親である。
「ちょっとアンタ! 何時間寝ているの? 惰眠を貪ってないで、生産的な過ごし方をしなさい!」
はあ…と黒い溜息を枕に染み込ませて、クシャクシャになった寝ぼけ眼の顔を起こした。「生産的」は母親の口癖であり、私の嫌いな言葉のひとつである。いやいやながら、私はドアのチェーンを外してドアを細く開く。呆れた表情を浮かべている母親が、その隙間からお化けのように見返している。うん、このお化けの顔、見るたびにシワが絶賛増殖中である。
「惰眠じゃありません。シエスタです。どうかご理解を」
そう言いながらドアを閉めようとした私を制して、母親は自分の腕をドアと柱の間に突っ込んだ。ガツンと痛そうな音がしたけれど、彼女は顔色ひとつ変えずに小言を続ける。
「待ちなさい! ヨコモジを使えば言い訳が立つと思ってるバカ娘!」
私は母親に部屋に入ってこれぬよう、力づくで押しのけようとするのだけど、母親も女性とは思えない腕力でギリギリとドアをこじ開けていく。ついには、体の半分が入れるほどにまで部屋への侵入を許してしまった。すかさず、彼女の軽いパンチが私の頭を掠める。
「何がシエスタ!? お昼ご飯も抜かして、朝の九時から五時間も眠ってたくせに!」
私だって負けていない。
「連日の仕事で疲れてるの! ほっといてってば」
この言葉に嘘はない。不動産業にとって九月は、会社員のお客様が転勤などに伴って業務が増えるミニ繁忙期。引っ越しフィーバーの初春よりは忙しくないけれど、普段よりもこなすべき業務が多くて頭がどうかなりそうになっているのだ。専業主婦の母親にこの大変さが分かるとは到底思えない。
「でも、数少ない平日の休みなのよ。生産的な貢献をなさいよ」
また出たっ! 生産的、生産的、生産的! 耳に胼胝ができるできるとはこのことです。人間、たしかに物を産み出せるステキな生き物ではあるけれど、息を抜く時間だって大切なのよ。私だって頑張るときは頑張れるのだ。休むときは休みたいのだ。私の主張したい絶妙な塩梅を、この人はまったく理解しようとしてくれない。困ったものである。
「はい、お金を預けるから、スーパーで買い物してきて」
「お遣い? 小学生じゃないんだよ? お母さんが行けばいいでしょ」
「牛乳とかミネラルウォーターとか、持つと重たいものがあるから頼んでるのよ。ささ、早く行ってきて」
なんという酷い母親だろう。自身の肉体労働を無条件に免除し、その労役を愛すべき娘に転嫁するとは。この不条理な社会的秩序、まさにアンシャン・レジームさながらではないか!
「お兄ちゃんに頼んだら?」
兄は継続した職に就いていない。ときどき塾の講師をしたり、児童クラブのボランティアに参加したりしているが、ほとんどは自分のために時間を使っている。以前、毎日をあくせくしている私を茶化して、兄は自身を「遊民」だと誇示していた。私に言わせれば、ただの「流浪人」なのであるが。
「それがね…!」
母親が、ニタリと口角を緩ませて答えた。正直、気味が悪い。嫌な予感しかしない。
「あの子、とうとうデートに行ったらしいのよ!」
「デート!?」
兄がデートに行くなんて、たとえ雨がキャンディになったとしても信じない。恋愛には縁の遠い双子、というのが私たち兄妹のあるべき姿なのだ。震える心臓を抑えながら母親から話を聴くと、どうやら兄は普段より浮かれた様子で「ちょっと出かけてくる」と玄関を出たらしい。珍しく手には小綺麗な花束を携えていたので、不思議に思った母親が事情を尋ねたという。
『あら、花束なんて持って、何処へ行くの?』
『花澤文藝図書館だよ。これを渡したい人がいるんだ』
そう言い残して、軽快な足取りで出ていったそうだ。
「つまりよ、花澤ナントカってところで恋人と待ち合わせして、デートに行ったってことでしょ? お母さん嬉しくて嬉しくて、そんな幸せ絶頂の息子に買い物を頼めないじゃない?」
夢見る少女のように眼を輝かせる母親に、私は白く冷たい視線で見つめた。まだデートと決まっているわけじゃない。だが、それ以上に聞き捨てならぬ言葉が胸に刺さって渦巻いていた。「花澤文藝図書館」…。そこは、私にとって、いや、徳田冬扇にとっての聖地ではないか…!
詳しい話は後でするが、この文藝館かつ図書館の機能を備えた空間がなければ、いまの「徳田冬扇」は生まれていない。かつて私は、私という存在が大嫌いになった。そして、一度だけそれまでの私をすべて殺して、全部をやり直そうと誓った。新しい名前でもう一度物語を始めようと決めたのである。不安で仕方のない背中を押してくれたのが、この花澤文藝図書館なのだ。
そんな聖地を、万が一にでも兄が見ず知らずの異性とのデートに使うとしたら…。私の妄想スイッチがONになって、古びた洋館風の建物が目に浮かんできた。落ち着いた雰囲気のサロンで、兄と誰かが、微笑みながら話し込んでいる。重なる手のひら、交わされる睦言。そして、始めから約束されたかのように二人は寄り添い、唇を近づけていき…。
ああ…。 ああ、もうっ! 絶対に赦さない!
私の聖地でデートするなんて、万死に値するわ!
「買い物は行ってくるけど、花澤にも寄るから!」
私は母親の手から財布をひったくると、乱れた髪の毛を整える暇も惜しんで玄関を飛び出た。母親はあまりの急な変化にあっけにとられているみたいだ。パーカーを羽織りながら駐輪スペースに向かい、使い慣れた白い自転車の鍵とチェーンを外す。熱の過ぎ去った秋の灰空が街を見下ろしている。自転車に跨った私は、ひやりと冷えたハンドルを握ると、目指す場所へ向けてペダルを回転させた。
後になってこの日を思い出すと、いつも不思議な気持ちになる。人生に「if」はないと分かっていても、そう考えざるを得ない経験というものは、往々にして起こりうるのだ。もしこの日が振替休日ではなかったら、もし兄が外出などせずに部屋で遊んでいるだけだったら、もし秋空に覆われた分厚い雲に気がついて、傘を持っていこうと思っていたら。
普段、自転車に括り付けてある折り畳み傘は、たまたま修理に出している最中だった。しかし、兄のことで頭が一杯になっていた私は、傘のことなどすっかり失念して住宅街を突き抜けていった。
雨が好き。何故なのかは知らない。
書くことが好き。ただそれだけで満足していた。
冬は、冬のままで終わるかもしれなかった。
そんな日常が、変わろうとしていた。