締め
締めの日にしては、落ち着いていたかもしれない。
新人相談員に、月末業務を説明した。
多分、以前いた職場でもやっていたと思いますが、こんな感じでやってます、と。
介護保険サービスを提供する事業所では、月の終わりに利用者の担当ケアマネジャーから「来月はこのスケジュールで利用者が利用します」と届く翌月の介護サービス提供票を確認する。翌月には利用実績をまとめて、「先月はこのように利用しました」とケアマネジャーに渡す。
ケアマネジャーは利用実績を見て、担当している利用者が予定通り利用しているか、いくら分使ったのかを確認して請求業務を行う。
利用者の介護度ごとに国から支給される限度額が違うので、その人に合ったサービスを予定に組み込む。限度額の範囲内でサービスを利用すれば、その人によって1〜3割の費用負担でサービスを受けられる。
組み込むサービスが少なすぎると、利用者は安全で安心な生活を送れないし、多すぎれば支給限度額を超えた分が実費負担となる。
利用者の安全安心な生活は、ケアマネジャーが組み込むサービスの内容如何に掛かっている、と言っていい。
…と、新人相談員には、介護保険の仕組みから説明した。
「さかきさんが説明してるのに、新人さんが腕を組みながら聞いているのが見えて…あれは覚えるのに時間がかかると思ったよ」
昼食後の歯磨きを終えた他の職種の職員が、マスクをつけながら教えてくれた。
「それ、教わる気があるのかな?」
「なんか、あの人いつも前で腕組んでるか、後ろで手を組んでるかのどっちかだよね」
同僚が口々に気づいていたことを話し出す。
こういう時は、一度噴き出してしまうとしばらくは止まらない。
その場にいたら、私まで仲間だと思われる。
「さかきさんもあんなんじゃ大変だよね?」
コーヒーを飲み終わったら、すぐ歯磨きをしよう、と思って、熱いコーヒーを我慢しながら飲み切ったところで、ついに私にまで声がかかった。
本部の事務長から、言われたことがある。
「同じ相談員同士、同僚に相手の不満は言わないこと」
一緒に仕事をする以上、相手の言動に不満が出ることもある。しかし、同僚に話せばただの悪口になる。
言うのなら、上司である主任に言うこと。上司は公平な存在なのだから、他の人には言わないし、必要であればアドバイス出来る。
事務長は若いながらもいろいろな修羅場を見てきたのだろう。まるで実際に修羅場をくぐり抜けてきたかのように話してくれた。
「まだ入ったばかりですし。経験積めば大丈夫だと思います。私も最近まで新人でしたし」
ありがちな回答で切り抜けて部屋を辞すると、私の心の中の彼が、廊下の壁に寄りかかって私の言葉に頷いていた。
ハヤくん、としておこう。
ハヤくんは、今夏の最中に入職した私に相談員の業務を教えてくれた先輩で、夏の終わりにこの世を去った。
年齢こそひと回りも下だったけれど、物腰穏やかで仕事が丁寧な彼に私は好意を寄せていた。
肉体を失った後も、いつも私の心の中にはハヤくんがいて、困った時にアドバイスをくれる。
仕事から離れたのに、まだ職場にいて、利用者さんに寄り添ったり、ファイルに目を通したりしている、まじめな仕事人間だ。
新人相談員が仕事を覚えられない。まだ慣れていないということもあるだろうが、先日、主任のお達しで介護業務に入ることになった。
「そういえば新人君は、どう?」
「ちょっと、集中して業務に取り組めてないですね」
主任と恒例になった朝のミーティングで話す内容は、今後の展望だ。
コロナ禍を言い訳に、利用者がだいぶ減ってしまった。
ハヤくんがいない今、この事業所を牽引するのは主任で、私たち相談員は主任のリーダーシップのもと、新規利用者獲得に向けていろいろな策を練っていた。
今月中には業務内容を改善して、落ち着いたら営業を始める。
その時には新人も私も仕事に慣れてくるだろうから、事業所の顔として営業回りをするつもりだ。
ところが、新人に慣れてほしい仕事が、まだ覚えられていない。
1ヶ月経過して、自主的にやってほしいルーティンワークすら、手をつけずに朝から他の職員との談笑に時間を費やしている。
曜日ごとにやってほしい業務を、メモを取らせた業務を、私から指示を出して、私と一緒にやり方を一つ一つ確認しながらやっていく状態。
私が休日の時は、前日のうちに予め業務内容を指示して行く。
「新人さん、この前も同じことやってなかった?」
「覚えられないのかねぇ」
他職種の目は鋭い。どんな仕事をやっているのか、どう仕事をしているのかをいつも見ている。数ヶ月前は多分私も同じことを言われていたんだろうと思うと気が重い。
「さかきさんはメモを取ってたんで、メモを見ながらなら時間が掛かってもやれてましたよ。大丈夫です」
慰めるように、ハヤくんが私の隣でフォローを入れてくれた。
ハヤくんは、いつも私を肯定してくれる。
何か間違えていると、違うと注意することもなく、微妙な表情をしているからすぐわかる。
先日も、なんとも言えない渋い顔をしていたハヤくんのお陰で、書類を見返してみたら、とんでもないミスを見つけることができた。
「最近は他の職種の皆さんの指摘が痛烈です」
休憩中のお喋りのことを思い出して、主任に報告すると、主任がうん、と頷いた。
「少なくとも、みんな仲間なんだからね。せっかく入ってくれた仲間に、気持ちよく働いてもらいたいね」
「そうなんですけどね」
つい、含みのある相槌になってしまった。
前日の遅刻騒ぎのことを思い出してしまって、言葉がキツくなってしまうことがあるのは否めない。
私の中では、一番やって欲しくないことだった。
いつも隣にいた、ハヤくんが来なくなった日を思い出してしまう。
だから、あの日を境に、つい新人に強く言ってしまうこともあった。
「仕事を覚える気があるのかないのか分かりません。初っ端にメモを取るように言いましたが、言わないと取りません。他の職種からも言われています」
「ハヤと比べてしまうとキリがないけどね。あいつは人一倍勉強していたし、みんなにも勉強した方がいいと呼びかけていたし」
「そうなんですか」
主任の話の方向が少し変わった。
私が知る生前のハヤくんは、自分の意見を言うことはあまりなかった。でも、言う時は良く通る大きな声で、ハッキリと言った。
主任が本棚を指差しながら、「そうだよ、ここのレベルは低すぎる、介護用語や医学用語とかの、勉強会だってやったんだ。全部あいつが企画して、あいつと僕が講師をやったんだよ」
「そうなんですか」
驚いて、同じ相槌を返す。
ハヤくんは主任の真後ろでパソコンをいじりながら、背を向けたまま大きく頷いていた。
彼の口からは語られなかった出来事は、彼がいなくなってからも他の人の口から少しずつ聴くことが出来る。
彼の努力が報われたのか、無駄に終わったのかは分からないけれど。
知らないことを知ることも、知らないとまずいと気づくことも、知らないことを認めることも、勇気が必要だったに違いない。何よりこの知識を自主的にゼロから身に付けるのは、難しいことだったと思う。
なんでも、新しい知識を得たい、好奇心旺盛な人だったんだね。
心の中で呟くと、ハヤくんはこちらを一瞥して、それきりこちらを見ることはなかった。
結局、この月は一度も提供票を触ることはなかった。
だけどそれで回ったのは、他の人が時間を作って、私の代わりに仕事してくれたから。
感謝しかない。
ひとしきり主任と話し合って持ち場に戻ると、ハヤくんも戻ってきていた。私の代わりに提供票を見ながら、送迎減算のチェックをしてくれる。鉛筆をくるくると回しながら。
懐かしい仕草に、つい笑みが漏れた。