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レセプト

介護保険でいうレセプトとは、介護報酬の明細のことを言う。
月末で締めた利用回数でリハビリや入浴サービスなどを提供した介護報酬を、各事業所ごとに国民健康保険団体連合会(国保連)に伝送することが月初のレセプト業務だ。
そして私は、レセプトまでは教わっていない。

ハヤくん、としておこう。
入職したばかりの私に相談員業務を教えてくれて、2ヶ月足らずでこの世を去った、年下の先輩だ。
訃報を聞いたのは、最後に一緒に仕事をした4日後のことだった。

不思議なことに、その後からハヤくんは私のそばにいて、必要な助言をしてくれるアドバイザーになった。
もう仕事をする必要がなくなったのに、彼はいつも私のそばにいて、困った時にそっと助言をくれる。
「おはようございます」
今月もレセプト担当のカナさんが本部から来てくれた。
カナさんは、本部の経理担当で、レセプトについて色々教えてくれる。ハヤくんが在職していた頃から、月末月初にレセプトのチェックをしてくれていたが、大体カナさんが来る前にハヤくんがレセプトをやってしまっていて出る幕がなかったそうだ。
ハヤくんが退職することになって、改めてカナさんがレセプトを担当することになった。
「おはようございます、またよろしくお願いします」
入って間もない私でも、カナさんはレセプト業務のある月末月初だけの出動ではあるが面識はある。ハヤくんが去った後は私がカナさんと時々電話をして、介護請求ソフトの使い方を教えてもらい、カナさんが来る日までに用意しておく書類を出したりしていた。
「介護券、届いてる?」
「はい、名前と期間は確認しました」
「ありがとう」
「それで…出来れば明日の朝、一番に提供票をファクスしたいんです。午後には新規利用者の書類に取り掛かりたいので」
「あー良いんじゃない?今日じっくりやって、仕分けしたら、無理なくやれそう。午前中のその後の時間はファクスが届いてなかった時とかの予備の時間にしておけば安心だし」
カナさんは私の予定を聴いて、頭の中で素早く自分のスケジュールを組んだようだ。

ハヤくんはレセプトをやっていたが、私はハヤくんからレセプトを教わらなかった。
「覚えると、全部やらなくちゃいけなくなるので、覚えない方がいいですよ」
生前のハヤくんの、全力のアドバイスだった。

退職すると決まってから1ヶ月という期間は、相談業務を引き継ぐには短すぎた。
彼がやっていた仕事量は膨大で、新人の私には捌ききれなかった。だから介護職員にも割り振って、減らしてもらった。
その上、レセプト業務まで引き継ぐ余裕はなかった。

だけど、パソコンの操作についてはカナさんより私の方が分かるらしく、データの更新などは私が任された。
「さかきさん、総合事業のベースアップ加算のCSVファイルって分かる?」
「あ、この前ダウンロードして、デスクトップに置いてありますよ。うまく入らなかったけど」
「じゃあ電話代わって!」
「えっ!」
ファクスの操作をしている最中に突き出された受話器を取って、反射的に出た電話の相手は、介護請求ソフトのカスタマーセンターの人だった。
提供票の実績に新しい加算が載らないから、カナさんがカスタマーセンターに問い合わせたらしい。
話し相手が急に代わって、カスタマーセンターの人もびっくりしただろう。それでも、丁寧な説明でなんとか切り抜けることができた。

ここの事業所で、介護請求ソフトが入っているパソコンは二つあって、一つは内部の居宅支援事業所のケアマネが、もう一つは私が使っている。
カナさんがレセプト業務をやっている時間、私は自分の席を譲っているから、別の部屋に行ってパソコンを弄っていた。
「カナさんは、いつもあんな調子なんですよね」
ハヤくんが利用者のファイルを読みながら、入力の仕方を教えてくれる。この世を去っても習慣が染み付いているのだろう。それについては私は何も言わず、彼のやりたいようにさせていた。時々、申し送りで名前が挙がった利用者のそばに行って、片膝をついて様子を見ていることもある。
人によっては亡霊だとか、怨霊だとか、悪い受け取り方をするかもしれない。でも私は、彼なら取り憑いてもらっても良いんじゃないの、と思ってしまう。
「カナさんって、明るいですよね。色々苦労しているように感じます」
「さかきさんもそう思いますか?ワンちゃんを飼ってて、闘病中なんだそうです」
「それは大変ですね」
「そういうところを全然見せないですよね」
私は、ハヤくんがいなくなった後に見つかった書類をまとめる作業をしていた。
毎月ケアマネに提出する必要があり、私一人で書くのは難しいから、介護職員に聞き取りながらまとめている。
ハヤくんがここに戻って来て、まず初めに、しれっと引き継いでくれたのが、この書類だった。
上手くすれば今日中には印刷できそうだ、と思っていたら、カナさんがわざわざ私のところへやってきた。
「ねえねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
カナさんが詰所のカウンターに肘をついて怒涛のように語り始めた。

新人相談員の働きぶりを見て、首を傾げることが何度もあったらしい。
「この人、なんで一つの業務が終わる前に持ち場を離れちゃうの?席でもたまにぼーっと前を向いて3分くらい手が止まっちゃってることがあるし」
一つのことが終わるまで集中できないのは、私もあるのでしょうがない。でも3分は長いね。
「利用者のところにふらふらっと行っちゃうけど、腕を組んで見てるだけで、特に何かするわけでもなし」
利用者の様子はたまに見に行かないとね…でも腕を組んで見てるのは、偉そうに見えちゃって良くないね。
「たまにタバコの臭いを付けて戻ってくるんだけど!」
タバコは…弁護できないわぁ。

カナさんも私もタバコを吸わないから、特に臭いには敏感だ。実のところハヤくんも吸っていたが、吸っていたのは電子タバコで、吸いに行った後は必ず臭いを消して戻ってきたので、いつタバコを吸いに行っているか本気で分からなかったぐらいだ。
まぁ、それは比べても仕方がないからともかく…
新人が仕事に集中できない人だという事は、カナさんも気がついたらしい。
こちらの部屋では滅多に見かけないカナさんの姿に、主任が気がついてやってきた。それを見たハヤくんが、あからさまに絶望的な表情でこちらを見た。
そうして、会話の輪に入る。尤も、私がしていたのが会話だったかどうかは謎だが…
「それね、事務長にも言ったんだけど、新人くんはなかなか仕事を覚えらんないの。困ってんだよ」
「いつもあんな調子で仕事やられちゃあさ、さかきさんだって迷惑でしょ」
「あいつさ、ちょっと仕事の話で注意すると、すぐ僕、病気なんで…って言うんだよ、だったら最初の面接の時点で言ってほしかったんだよ」
「えっ、病気なの?知らなかったの?そういうのって先に言っておくもんでしょ。そもそも自分から仕事したいって言って来てるのに、やっぱり仕事できませんって、おかしいんじゃない?」
うわっ、と思ったら、つい声に出てしまった。
以前の面談で、直接本人から病気の話を聞いた。主任のことだから当然本部にも報告しているだろう。でも本部の人とはいえ上司以外の人間、平社員に病気の話を本人の承諾なしに話すなんて…
「こんなんじゃ、正社員として働かせるわけにはいかないよね。非常勤でやってもらってもいいんじゃないかな」
「そこまでする必要はないにしてもさ、ただでも仕事量の多い職種なんだから、新人くんの顔色を見ながら仕事量決めてたら、この子の仕事量がいつまで経っても減らないわよ?」
カナさんと主任にエンジンが掛かったのがわかる。これではいつまでも話が終わらない。
カナさんは自分の愚痴を聞いてくれる人なら誰でも良いようだ。
「さかきさん、ここから離れた方が良さそうですよ」
ハヤくんの勧めで、私はそっと詰所を後にした。パソコンのキーボードで、Ctrl+Sを押すのを忘れずに。

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